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夏夢  作者: Kesuyu
7/12

7 予期せぬ再開、雨




 それ以来、夏南は寝る前にはいつも、夢依先生の語ってくれた話について考えるようになる。相変わらず天井には焼け焦げたようなしみがあり、その一点を見つめながら彼女は何度も夢依先生の過去について頭の中で思い描く。たとえ夢依先生が過去に不倫を経験していたとしても、夏南の彼女に対する尊敬と敬愛の念は、敬虔な信徒の信仰のように微塵も損なわれない。むしろ自分にだけ(彼女の口ぶりからして、おそらく自分にだけだろう)真実を打ち明けてくれたことに対して歓びすら覚えるほど。

 いつしか瞳を閉じて自らの過去についても考える。以前見た、夢やフラッシュバックのことを思い出す。そうして、やがてそのまま意識の暗い階段を徐々に下りていく。一歩一歩たしかめるように進んだ先には狭い通路があり、その最奥には古くて重くて頑丈そうな鋼鉄の扉がある。彼女はしばらく佇んで扉を眺める。そして意を決して、扉の真ん前に立ち、ドアノブに手をかける。でも扉は開かない。押しても引いてもぴくりともしない。どうやら内側から鍵がかかっているらしい。とても強固に。扉の向こう側からは囁くような声がする。こっちに来ちゃ駄目。暴かれたら、もう最後――あなたは元の世界にはいられなくなる。


 そうしてまた一週間が過ぎたその日、夢依先生が夏南を診察室に呼び出して言う。

「ちょっと早急に片付けないといけない案件があって、帰りは遅くなるから、夕飯はいらないわ。夏南ちゃんひとりで済ませちゃって」

 仕事が終わると夏南は制服を着替え、京華(今ではすっかり良き相棒だ)に別れを告げて、一応夕飯の支度のための買い出しに行く。でも時間は有り余るほどにあるので、途中で寄り道をしようと思い立つ。夕暮れの海を眺めるために。空の下方は見事に夕焼けに染まり、海上ではウミネコが心地よさそうに啼いている。

 夏南が砂浜に腰を下ろし、その燃え盛るような黄昏の空を見つめていると、誰かに声をかけられる。

「お姉さん、一人?」

「よかったら俺たちと一緒に過ごさない? 夕日を見るのにもっといいスポット知ってるよ?」

 若い男の二人組だ。男らは派手な海水パンツを穿き、そのうえ髪はジェルによってびっしり塗り固められている。夏南は戸惑いながら首を大きく横に振る。胸がつかえて言葉がうまく出てこない。その様子を見て若い男たちは急に嬉々として騒ぎ出す。

「あれ? もしかしてミヨシじゃね?」

「マジで? ほんとだ、かわいくなって下田に帰ってきたって聞いたけど、すげえかわいくなってんじゃん」

 私のことを知っているの? 夏南は驚いて立ち上がり、その場から立ち去ろうとする。でも、すかさず頑強な男に手をつかまれる――がっちりと。手首が痺れそうだ。

「いいじゃん、ちょっとくらい。冷たくしないでよ、俺たち中学のときの同級生なんだからさ?」

「せっかくだから昔話にでも花を咲かそうよ。岩場の奥の誰もいないところに行こう?」

 天から一粒の雫が落ちる。それが直線を描いて腕にかかり、夏南ははっとする。どうしよう、まずいことになった、とにかく、逃げなきゃ。

「やめなさいよ、あんたら!」

 傍らで事の成り行きを見ていたひとりの若い女がそうどなる。チャコール・グレーのワークキャップ、淡黄色のショートパンツ、そして羽織った薄手の黒いパーカーのポケットに両手を突っ込み憤然と仁王立ちをしている。強風に煽られて、そのロング・ヘアも舞っている。以前、海辺の蕎麦屋で声をかけてきた赤いビキニにピンクのパーカーの娘――岩田さんだ。

 男が言う。「なんだ碧かよ、ジャマすんなよ」

 もう一人の男も言う。「俺たちは悪くないさ。誘ってきたのはミヨシの方だぜ?」

「最悪。モテない男に限って、自分の魅力のなさをタナに上げて、うまくいかないのを全部女のせいにするよね?――キモイ、鈍感、死ね」

 岩田さんは吐き捨てるようにそう言う。そして近づいてきて男たちを威嚇すると、相手が手を緩めた隙を見計らって夏南の手首を握りしめる。

「いくよ、走んな」

 空はゴロゴロと唸りだす。急な雷雨の中、岩田さんは夏南の手を取って走る。二人は走りつづける。終着点は一件の古風な民家だ――周囲の家よりも立派な建物で敷地も広い。

「あの、ここって?」玄関の屋根の下で夏南が尋ねる。

「何寝ぼけたこと言ってんの? あたしんちに決まってんじゃない。あんたも昔、何度も来たことあんでしょ。ここいらでは一番まともで安全な場所」

 岩田さんはそう言って玄関の引き戸をガラガラと引いて「ただいま」とどなる。

「そ、その、岩田さん? 助けてくれてありがとうございました……」

 岩田さんはバスタオルで髪を拭きながら、夏南にも白いバスタオルを放って渡す。

「カナ、あんたまったく、都会に行って印象は変わっても中身はユウジュウフダンのまんまね。それにやけによそよそしい――頭でも打ったんじゃないの? また昔みたいに『アオイ』って呼びなよ? あと敬語も禁止。だってあたしらはレッキとした『ダチ』なんだから」

「えっと、わかった、アオイちゃん」

「『ちゃん』もいらない」

「アオイ」

「よし」碧はやっと厳しかった相好を崩す。「じゃあ飯食っていきな、カナ。この時間になると、ばあちゃんがしこたまこさえてっからさ」

「――ええ?」


「あら、夏南ちゃん、よく来たねえ」碧の祖母が言う。「うん、あんたのことはよお覚えとるよ、ええ、いつぐらいぶりかねえ。ご飯、うんと作ったから、夏南ちゃんもたんとおあがりよ」

 夏南はいかにも昔ながらの広い立派な座敷に通され、茶褐色の長方形をした大きな座卓の前の小豆色をした座布団の上に座らされる。向かいに碧もどかっと腰を下ろす。座卓の上にはびっしりと大皿や小鉢が並んでいる。碧は向かいであぐらを組みながら、ビール瓶を片手に夏南のグラスにビールをつぐ。

 碧がビールをひとくち飲んでから言う。「察しはついてるかもしんないけど、ばあちゃんちょっとボケてんの。もうこの家にはばあちゃんとあたししか居ないのに――何度言っても――昔にぎやかだったころと変わらないほどの料理を今でもせっせと作んのよ。まあ、誰に迷惑かけてるわけでもないし、近所をハイカイされるとかよりはよっぽどマシなんだけどね」

 夏南が尋ねる。「他の家族は?」

「あんたも知ってのとおりよ」碧は蛸ときゅうりの酢の物を箸で摘まんで遠い目をする。「おふくろは男作って蒸発しちゃうし、親父も突然音信不通になってどこで何をしているやら。弟は名古屋の偏差値の高い大学に通ってるけど、もう下田には未練がなさそうだし。じいちゃんは五年前に肺がんで死んじゃうし。ばあちゃんが今でもきっちり六人前の夕食を用意するのは、当時の――うちが一番にぎやかだったころの――記憶が頭から離れないから。きっとさみしいんだと思う」

 夏南はどう答えていいかわからず黙っている。

「親戚連中は忘れたころに顔を見せにくるけど、みんなばあちゃんが貯め込んだ財産目当てにやさしいフリしてるだけ。だからあたしくらいはちゃんとばあちゃんの傍にいて守ってあげようと思ってるわけ。まあ、元々あたしっておばあちゃん子だしね」

「偉いね、アオイは」夏南は手元のグラスに視線を落として言う。「おばあちゃん思いなんだね」

「まあね、ばあちゃんにはあたししかいないからね」碧があごを上げて得意げに言う。「あたしにもばあちゃんしかいないけどさ」

「それに強いよ。男の人にも果敢に立ち向かっていくんだもん」

「ここいらはあたしのナワバリだかんね。地元で悪さする奴がゆるせないってだけ」

 碧は金目鯛の煮つけを箸でほぐす手を止めて外を見やる。本格的に雨足が強くなっている。雷光が二度つづけて彼女たちのいる部屋の壁を照らす。追って轟音が鳴り響いたら、碧は顔を戻して深刻な顔をする。

「ところでカナ、下田に帰ってきたんなら、どうしてあたしに連絡くれないわけ?」

 どう説明すればいいのか、夏南はうろたえる。実はあなたが誰なのかも覚えていないとは言えない。記憶喪失のことはあくまでも秘密なのだ。京華には話してしまったとはいえ。

「もしかしてあたし、避けられてる?」

「そんなことない!」夏南は声を上げる。「その……携帯電話を失くして、それで連絡先がわからなくなってただけ」

 とっさに湧いて出た嘘に夏南は胸を痛める――きりきりと万力で締め上げるような痛みだ。でもそれはどうして彼女にとってどこか奇妙にも懐かしい感覚でもある。

 碧は片膝を立てて見定めるような目つきで黙っている。しばらくするとため息をついて、頭をかきながら言う。

「とりあえず、食べな。カナ、あんた、全然ハシが進んでないじゃん。残してもいいから、ばあちゃんの料理、ちゃんと腹一杯味わったら全部チャラにしてやるよ」

 夏南は箸を持ち上げて頷く。「わかった」

 碧はおもむろに立ち上がり、ガラス戸を引いて、雨模様をじっくりと観察する。雨が烈しく庭に打ち付けていて、見通しも悪い。まるで大気がひび割れているみたいに。ただ雷は、他所へと関心が移ったかのように、いつしかやんでいる。

「心配ない。これは通り雨だ。あと十分もしたらやむんじゃない?」

 碧はそう言って、ショートパンツのポケットからアイコスを取り出す。本体に煙草スティックを差し込み、電源を入れる。それから碧はひととき佇んで外を眺めながら無表情にその加熱式煙草を吸う。煙を吸い終えると彼女は煙草スティックを抜き取って携帯式灰皿に入れ、アイコスと一緒にまたショートパンツのポケットに仕舞い込み、振り返る。

「カナ、あんたが昔のことと距離を置きたいのは何となくあたしにも理解できる。まあ、忘れたい過去のひとつや二つ、誰にでもあんじゃん? それも、まわりから気味悪がられて、孤立していた過去ならナオサラだわ」

「え、孤立?」夏南は驚いて聞き返す。

「何その反応?」碧は怪訝な表情をする。「マジで忘れたっていうの? だって出会ったころ――中学二年生のころのカナは、髪はぼさぼさで、その上ダサい眼鏡かけて、いつも下を向いてて、何ていうか、当時のあんたは何者も寄せ付けないっていうか、関わると相手が呪われそうなくらい禍々しいオーラを周囲に放ってた」




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