5 少女たち、ブルゴーニュ
「記憶……喪失?」京華は言葉を区切りながら聞き返す。まるでうまく呑み込めないものを、ゆっくりと咀嚼するみたいに。
夏南は彼女の瞳を見つめて頷く。夏南の真っ直ぐな眼差しは、そのことが真実であることを物語っている。少なくともからかっているわけではない。
京華はとくに驚いた様子もなく、ただそのことについて考える。彼女はいつだって沈着冷静なのだ。そして尋ねる。
「それは、その、たまにアニメとかで観るようなやつのことですか?」
「うーん、それとは違うような気がするけれど、部分的には似ていると思う。何しろ私には――生活能力を除けば――ここ二か月くらいの記憶しか存在しないから」
京華はあごに手を当ててまた考える。「それで——医者は何て?」
「色々言われたけれど、要約すると結局のところ、正直治療法もよくわからないみたい。おそらく交通事故に遭ったショックが原因だろうってくらいで」
「交通事故?」京華は眉をぴくりと動かす。「大丈夫なんですか、本当に?」
「私はぴんぴんしてるよ」夏南はそれを示すように両腕を広げる。「とくに大事はなかったから。それに今は夢依先生の診療を二週間に一度受けているしね」
「お疲れ様」いつの間にか夢依先生が戻ってきて座敷の前に立っている。「途中で抜けちゃってごめんね。緊急の事案だったから」
「いえ」夏南はどぎまぎして首を振る。自分が記憶喪失なのを誰にも言わないこと、夢依先生に口止めされていたのに破っちゃったな、と思いながら。
「そろそろお開きにしましょうか。清算なら済ませといたから」
夏南と京華は思わず座敷で横になってぐっすりと寝ている藤田さんを見やる。藤田さんは熟睡して若干よだれを垂らしながら、ぷりんと丸まったお尻をぽりぽりとかいている。
夏南が尋ねる。「あの、最初にダウンした人が全額お支払いじゃなかったんですか?」
「あれは冗談よ」夢依先生が微笑む。「そのほうがスリリングだったでしょ?」
「ええ、まあ」夏南は曖昧に相槌を打つ。たしかに藤田さんが早々に酔い潰れるまでは、と。
「送迎会なんだから、これくらいは私に払わせて。遠慮はいらない」夢依先生は腰に手を当ててにっこりと笑う。
ごちそうさまです、と夏南と京華は礼を言う。
豪快にいびきをかいて眠っている藤田さんを夢依先生が強引に叩き起こす。藤田さんは目をこすりながら状況を察知すると、まるで子供みたいにぐずって駄々をこね始める。
「やーだ、もっと呑む、最近ちょっと寝不足だっただけ。むしろこっからが本番。二軒目行きたい、これでみんなとお別れなんて嫌——寂しい」
始末に負えないので最終的に夢依先生が彼女に付き添う。
「こっちは大丈夫だから、夏南ちゃんと京華ちゃんは二人で先に帰ってて」
夏南と京華は戸惑いながらも頷く。
「大人組は知り合いがやってるスナックにでも顔を出して、しっぽりウイスキーでもやるから、夏南ちゃんは先に寝てていいわよ」
「は、はい」
「藤田さんの最後のわがままだから、これくらいは許してあげてね」
夢依先生はそう言って、いつものように手をひらひらと振る。
月明かりの下、夏南と京華は並んで歩く。夜更けだというのに、蝉がどこかでジジジと鳴いている。町から見下ろす港は星空のように灯火が煌々としている。地面はすっかり熱を失い、通りは閑散として、人々は家の中に避難している。
「あの——」京華が切り出す。「べつに疑っているわけじゃないんですが、さっきの話……つまり『記憶喪失』の話って本当ですか?」
夏南は振り向いてにこやかに笑う。「ほんとだよ」
「よくそんな風にへらへらと笑えますね。私には理解できません。不安はないんですか?」
「もちろん不安だよ」夏南は答える。「でもだからといって起きてしまったことは仕方がない。それにまわりに迷惑をかけたくないんだ。とくにお世話になっている夢依先生には」
京華は黙っている。しばらくすると口を開く。
「誤解していました」
「何を?」夏南はきょとんとする。
「あなたを。失礼ですが——弱い人だと思い込んで内心では見下していたので。すぐにおどおどして、そのくせ能天気で、でも何というか、その、正直どこか悲劇のヒロインぶっていると勘違いしていました。でも本当に悲劇のヒロインぶっているのは結局——」
そこで京華は一旦口をつぐむ。そして息をついて話をつづける。
「怪我で選手生命を奪われて、陸上をつづけることができなくなって、何の希望も見出せなくなっていた私のほうでした。幼少期からそれ一筋にやってきて、私には陸上しかなかったのに。陸上が私のすべてだったのに。本当に何もかもを犠牲にして、なげうってきたのに。それを……積み重ねた努力がこんなにも呆気なく無駄になるなんて、どこで選択を間違えたんでしょう。怪我さえなければ、と今でも思います。正直今の私は抜け殻です。蝉にでも脱ぎ捨てられた空っぽの残骸です。情けないですよね?」
夏南はそっと京華を抱きしめる。京華ははっとする。どれくらいぶりか、ひさびさに覚える人の体温に。時として肌のたしかな温もりはどんな言葉よりも痛切に大きな意味を持つ。
「京華ちゃん、辛かったね」
京華は何も答えない——より正確にいえば、何かを言いかけてやめる。ただ彼女の目からは、きれいな涙が頬をつたっている。声を殺して泣いているのだ。
そうしてしばらく二人だけの時が流れていく。いつしかとめどもなく溢れ出る雫は少女たちのシャツを濡らす。そのようにして自らの温度を交換しあう。彼方では、汽笛がまるで励ますように、何かに向けて合図を送っている。
結局のところ、夏南も京華と一緒に泣いてしまう。夏南もこれまで色々と我慢してきたのだ。むしろよくずっと弱音を吐かなかったといえよう。彼女にだって、自分のために涙する資格も権利も必要性さえもある。そうしてゆっくりと大人になっていけばいいのだ。
「やっぱりよくわからない人ですね」別れ際に京華は言う。「また明日」
「うん」夏南は元気よく言う。「また明日」
時計の針が午前0時を回ったころ、夢依先生が帰宅する。夏南は自室のベッドの中で耳を澄ましたまま、バスルームでシャワーの流れる音を聴いている。シャワーの音がやむと、今度は洗面台でドライヤーをかける音がする。足音がリビングの方に近づいてきて、冷蔵庫の扉が開き、お茶か何かをコップについでいる音が聴こえる。
しばらくするとパジャマ姿の夢依先生が夏南の部屋にそっと入ってくる。そしてゆっくりとベッドに近づいてきて、その中央にちょこんと腰掛ける。夏南は仰向けになって目を瞑っている。その頬が手のひらで包まれる——手からはやさしい温もりが伝わる。
夏南は思い切って目を開ける。「夢依先生」
夢依先生は瞬きをして、目を合わすように首をややかたむける。
「あら、夏南ちゃん、起こしちゃったかな?」
「いえ、起きてました」
「そう」
「もう大丈夫なんですか?」
「もう大丈夫よ。藤田さんのことなら気にしないで。彼女、ちょっと悪酔いしていたけれど、ちゃんと家まで送り届けたから」
夏南はふつふつと湧いていた疑問を思い切って投げかけてみる。
「以前から気になっていたんですが——夢依先生は下田の出身ですか?」
「どっちだと思う?」夢依先生は聞き返す。
「違うと思います」夏南は率直に答える。「何となく、纏っている雰囲気が町の人たちとは全然違うので……」
「正解」夢依先生は微笑んで持ち上げた手の人差し指を立てる。「10ポイント」
「夢依先生はどこからやってきたんですか?」
「四年前に札幌から下田に越してきたのよ」
「札幌?」夏南は驚く。「札幌って北海道の? ここよりずっと都会ですよね? しかもそんな遠くの街からどうしてまたわざわざ下田に?」
「その話はまた今度してあげる」夢依先生はそう言ってすっと立ち上がる。「もう寝なさい」
彼女は部屋を静かにあとにする。洗いたての、爽やかな髪の匂いを残して。
翌朝、夏南は「山本診療所」にやってきて初めての朝寝坊を経験することになる。とはいっても、夢依先生がちゃんと起こしにきてくれたので、仕事に支障はなかったのだが。リビングに行くと食卓にはしっかりと朝食の支度も整っている。スモークサーモンとグリーンリーフのサンドイッチ、梨のヨーグルト、それに仄かに湯気の立つ芳ばしいホット・コーヒー。
「簡単なものしか作れなくてごめんね」夢依先生は言う。
夏南は小刻みに首を振る。「とんでもない、むしろ寝坊してしまってほんとにごめんなさい。お手を煩わせました」
「昨夜はあれだけ呑んだんだもの。それに、べつに無理していつもご飯の用意をしてくれなくたっていいのよ。ときには楽だってしないと、ね?」
「は、はい」
朝食後、制服に着替えて一階に下りると、受付カウンターにはすでに京華の姿がある――藤田さんが管理していた診療所の裏口の門の鍵を譲り受けたのだ。昨夜、途方もない量のビールを呑んだにも関わらず、彼女の顔つきは凛として、平然と仕事をしている。
「おはよう、京華ちゃん」
「おはようございます、三好先輩」
「京華ちゃん」夏南はにっこり笑う。「夏南でいいよ」
「え、その――」京華は口元を手で押さえ、視線を外す。心なしか頬が赤い。「夏南……さん」
夏南は満面の笑みで答える。「なあに?」
「提出を迫られている資料のダブル・チェックをお願いしたいのですが――」
「うん、わかった」夏南はプリント用紙を受け取る。
京華は卓上カレンダーに目を落として言う。「誰にも言わないでください」
「何を?」
「えっと、昨夜、その、多少酔いが回っていたとはいえ、泣いてしまったことです」京華は気真面目そうな顔で言う。「怪我で陸上を辞めたときでさえ涙は出なかったのに」
「京華ちゃんは強いね。きっとそうやって長年溜め込んだ涙が、ふとした瞬間に一気に溢れ出たんだよ」
京華はそれについて留保するように宙を見上げる。
「私も夏南さんの病気のことは誰にも言いませんから」
夏南は微笑む。「じゃあ、二人だけの秘密だ」
「秘密――」その言葉に、京華は蜜のような響きを感じ取る。そして顔を下ろし、どこか神妙な面持ちできっぱりと言う。「はい、トップ・シークレットでお願いします」
彼女たちは診療所の入り口の扉を解錠する。扉を開けると、真夏の太陽の光線が熾烈に降り注ぎ、盛大な蝉の鳴き声がどっと押し寄せる。周囲を囲う樹々の緑は燦然ときらめき、壮大な海にはしばしば行き交う船が水鳥のように浮かんでいる。空気は蒸すみたいに熱く、彼女たちの肌はすぐにじんわりと汗ばむ。
二人はしばし黙って海を眺める。そのあいだ、ときおり渓間から吹き抜ける風が、少女たちの髪を微かにそよがせる。
それから一週間は平穏な――いくらか単調な――日々が過ぎ去っていく。仕事は順調で、大したトラブルもなく、藤田さんが抜けた穴も、新人の京華がしっかりと埋めている――未だに藤田さんに電話で相談することはあるが。
京華の仕事に対するストイックな向き合い方は、彼女が以前優秀なアスリートであったことを如実に物語っている。また夏南は、京華と一緒に泣いたとき以来、彼女が段々と自分に対して心を許しつつあることに気づく。あるいは認めつつあるといってもいいのか。夏南の患者に対する分け隔てのない穏やかな接し方は、京華には到底真似できるものではなく、もはや夏南は、患者たちから愛され、親しまれるようにまでなっている――彼女が記憶障害であるにも関わらず。ときおり夏南は、自身の挙動を、京華がまるで新種の生命体にでも出くわしたかのようにつぶさに観察しているのを感じる。以前の京華のまわりには――競争の世界においては――あまり見かけたことのないタイプの人間だからであろう。でも夏南は彼女と目が合うと、それが嬉しくて、微笑んで返す。すると京華はばつが悪そうにすぐに視線を外すのだが――
そんなある日の晩、夢依先生が仕事から二階に帰ると、夏南はリビングの角の埃を吸い込ませている掃除機の電源を切って納戸に仕舞い込み、丁寧に手を洗ってから、オーブンで小海老と帆立のグラタンを焼き始める。
「いい匂い」シャワーを浴びると夢依先生は言う。
「あと五分待ってください」夏南は言う。
「待つ待つ」夢依先生は嬉しそうに微笑む。「夏南ちゃん」
「何ですか?」
「丁度料理に合いそうなブルゴーニュが冷えているんだけれど、一緒に飲まない?」
「いいんですか?」夏南は聞き返す。
「もちろん、それに遠慮するほど高価なやつじゃないから」
彼女たちは夕食とともに白ワインで乾杯をする。そして色んな話をする。ワインのせいもあってか、会話は淀みなく、むしろ弾み、基本的に夏南が最近身のまわりで起きた出来事を表情豊かに伝え、夢依先生はそれについてとくに意見も述べず笑顔でうんうんと聞いている。あっという間にワインのボトルが空になり、夢依先生がキッチンでミモレット・チーズを手際よくひとくちサイズに切り分けて皿に盛りつけ、新しいボトルのコルクをソムリエ・ナイフで器用に抜く。彼女は席に戻ると、自分と夏南のワイングラスにワインを注ぐ。
夏南は言う。「そろそろ後片付けをしないと……」
「座ってて」夢依先生が笑顔で言う。「今日は私がやるから」
「でも――」
「この前の――私が札幌から下田に移住した話のいきさつ、聞きたくない?」
夏南は思わずはっとする。夢依先生のことをもっと知りたい。
「聞きたいです!」
夢依先生はワイングラスのプレートの上に二本の指を置いたまましばらく物憂げに黙っている。そのあとその指でステムを摘まんでひとくち飲む――とても優雅に。
「一本だけ煙草を吸ってきてもかまわないかしら、外で」
夏南は毅然として言う。「ここで吸ってください」
「オーケー」
夢依先生は流し台の上の戸棚から灰皿とマッチ箱を取り出して持ってくるとテーブルの上に置き、ボックス・ケースから煙草を一本抜き取ると、口に咥えマッチをこすって火をつける。すぐに煙草の先端が赤く光り、糸のような紫煙が立ち昇る。その薄い唇のあいだから煙を吹きだすと、リビングの空気清浄機は従順なしもべのように呼応する。煙草の火種を灰皿の上にそっと落とすと、それを丁寧に揉み消し、煙草のボックス・ケースと灰皿とマッチ箱をテーブルの端に寄せてから、夢依先生は言う。
「何から話せばいいのか――私の過去を知ると、夏南ちゃんは私に幻滅して、私のことを嫌いになるかもしれない。それどころか軽蔑して私を責め立てるかもしれない」