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夏夢  作者: Kesuyu
4/12

4 それいけ! 飲み会




「ほんと馬鹿ね」藤田さんが言う。「人手が足りないから元々受付にもうひとり人員を入れる予定だっただけよ。シフトの都合だってあるし」

「ということは、私はクビじゃないんですね?」夏南は聞き返す。

「当たり前でしょ。何のために夏南に仕事を教えたと思ってるの。戯けたことに付き合わせるほど、こっちだって暇じゃないのよ」

 夏南は心底胸を撫でおろす。

「西さん」藤田さんが新人の女の子に呼びかける。「この子に自己紹介してあげて」

 西さんと呼ばれた娘は椅子からすっと立ち上がる。すらりとした長身だ。仄かに石鹸の匂いもする。

「西京華です。どうぞよろしく」

 京華はそう言うと少しばかり頭を下げる。

 夏南は緊張して声がうわずる。「三好夏南と申します! こ、こちらこそ、よろしくお願いいたします!」

「まったく——これじゃ、どっちが先輩なのかわかんないわね」藤田さんはテーブルに肘をついたまま、のけぞって天井を見上げる。「やれやれ」

 自分に後輩ができたことを、夏南は素直に嬉しく思う。夏南が聞いたところによると、京華は東京の四年制の大学を卒業したばかりで、年齢は二十二歳。夏南の方がひとつお姉さんだ。記憶障害になってしまったとはいえ、夏南には社会経験だってある。頼りになるところを見せなければいけないと彼女は意気込む。


「そこ、レセプト間違ってますよ」不意に京華が夏南の横からさらっと指摘する。

「え?」夏南はキーボードを打つ手を止めて京華を見る。

「この患者さんは今回『検査』も行っています。その点数が漏れています」

 夏南ははっとして、すぐにコンピュータのモニターを確認する。京華の言ったとおり診療報酬点数に抜けがある。これでは正しい請求額が算出されないどころか、ミスがあればクリニックに支払われる診療費も入らなくなるかもしれない。

「ほんとだ、気づかなかったよ。もし間違っていたら大変なことになってた。ありがとう、京華ちゃん」

「フッ」

 フッ? 何か今、鼻で笑われたような? 夏南は一瞬そう思ったが、きっと気のせいだろうと思いなおして真剣に作業をしなおす。それに助けてもらったのは事実だ。感謝しなくてはならない。

 京華は仕事の吞み込みが早く、やることも正確だ。事務仕事に関していえば、勤続三日目には夏南よりも的確にこなせるようになっている。

「もしかして京華ちゃんは受付の仕事の経験者なの?」夏南は気になって尋ねてみる。

「いえ、クリニックの受付業務は初めてです」京華は書類の束をテーブルの上でとんとんとそろえて言う。

「ほんとに?」夏南は感心する。そしてまた尋ねる。「以前はどこで働いていたのかな?」

「大学を卒業してからずっと、実家でオンライン・ゲームをしていました。主にFPS」

「え?」

「そしたら両親がうるさいのでこちらの面接を受けたところ即採用されました」

 夏南は何か気の利いたことを言おうとする。「それは何というか、その——」

「あの」京華がカルテに視線を預けたまま口を挟む。「仕事中なので、そろそろ黙ってもらえませんか?」


「京華ちゃんのことについては本人の口から直接聞いてちょうだい」

 夕食の席で夢依先生はそう言うと、夏南の作った親子丼をご機嫌に箸ですくう。

「でも何というか、その、彼女から壁を感じるんです」夏南は箸を持つ手をテーブルに下ろしたまま言う。

 それについて夢依先生は少し考える。「本人が話したくないなら、べつに言及しなくてもいいんじゃない。とくに仕事に支障はないんでしょ?」

 夏南は頷く。

「じゃ、ほっといてあげよう」

「でも藤田さんがいなくなったら、うまく連携が取れるか不安で——」

「大丈夫よ」夢依先生が口を挟む。「本当にちゃんとした子だから、それくらいうまくやってくれるわ。そこらへんは私が保証する」

「でも京華ちゃん、まだ一度も呼んでくれていないんですよね……」

 夢依先生はお吸い物を飲む手を止める。「何を?」

「私の名前」夏南は深く落ち込んだようにうつむく。「殆ど目も合わせてくれないし、接しているとまるで自分が透明人間にでもなったような気分です」

「ふむ」夢依先生が相槌を打つ。「まずは距離を縮めることね。そこに丁度もってこいのイベントが今週末にあるわ」

「何ですか?」夏南は顔を上げて尋ねる。

「夏南ちゃんの歓迎会、まだやってなかったでしょ? 京華ちゃんも加わったことだし、藤田さんの送別会もかねて、女四人で何の気兼ねもなく飲み会するわよ」

「楽しそう」

「楽しいに決まってる」夢依先生は満面の笑みで答える。

 その晩、夏南は悩みなどすっかりと忘れてぐっすりと眠る。夢依先生の晩酌に付き合って、気づかないうちにベッドに運ばれる。記憶喪失になって以来、夏南は確実に別人のようになっている。過去の彼女なら、些細なことでもずっと引きずっていたことだろう。


 彼女は夢を見る。

 夜だ。夏南は車の助手席に座っている。隣ではどこか見覚えのある端正な顔立ちの若い男が、涼しい顔でハンドルを操作している。対向車のヘッドライトが滲んでいて、すれ違うたびにやけに眩しい。数多の街灯が途方もなく後ろに追いやられていく。彼女は何かを覚悟している。そのうえ手のひらは汗ばんでいる。この世界は——それともこの私は——どうしようもなく歪んでいて、救いようもなく不完全であると確信する。


 翌朝、彼女が目を覚ましたのは午前五時だ。額は汗でぐっしょり濡れている。何、今の夢? と夏南は思う。妙にリアルだったな。手を伸ばせば触ってたしかめられそうなくらいに。動悸が激しくなっている。そして彼女は首を何度も振り、シャワーを浴びてから朝食の支度をする。でもその日見た夢の残像の一片は、意識の裏側にしっかりと根を張っている。


 予定通り週末に送迎会が行われる。日が暮れると「山本診療所」の四人は近くの居酒屋「ならず魚」の店頭に集結する。

「最初にダウンした人が全額お支払いよ」夢依先生がデニム地のブルーのワンピースを着て言う。

「望むところです」藤田さんがオリーブ色のシャツにえんじ色のタイトスカートを着て答える。

「ひいい」夏南は黒いノースリーブのブラウスに淡いピンクのプリーツスカートを着て戸惑う。

「……」京華はアニメのキャラクターのプリントされたライムグリーンの着古したTシャツにライン入りの濃紺のジャージーパンツを着て黙っている。

 店の扉を開くとどっと賑やかな話し声が聞こえる。週末ということもあり、どうやら盛況な様子だ。すぐに店員が駆けつけてきて、旺盛に名前を確認し、予約した奥の座敷に通される。途中、厨房から坊主頭にはちまきを巻いた中年男性が声をかけてくる。

「いらっしゃい、お、これは先生、相変わらず今日も目もくらむほどお美しいね」

「ホホ、褒められて悪い気はしないけれど、なんにも出ないわよ。大将もお疲れ様」

 座敷の壁には大漁旗が飾られている。その下で、四人は卓につく。夏南の向かいには夢依先生、左斜め向かいには藤田さん、隣には京華。とりあえずビールで乾杯をする。食事は適当に頼めばいい、各々が食べたいものを好きなように。

 藤田さんと京華が競い合うように豪快にビールを飲み干して、二人同時に空になったジョッキをテーブルにどんと突き立てる。そして満足げに息を洩らす。そのあと丁度刺身の盛り合わせとシーザーサラダを持ってきた店員に、二人ともすかさずおかわりを注文する。

「ちょっとあなたたち、ペースが早いんじゃない」夢依先生が目を細めて言う。

「まだ始まったばかりですよ」心配して夏南も言う。

「いいのよ」藤田さんは答える。「これで下田とはお別れだし、フィアンセの待つ埼玉に行ったら、もうなかなか帰ってこられないんだから……今のうちに羽を伸ばしておかないと」

「私は元々酒が強い方なので問題ありません」京華も抑揚を欠いた声できっぱり答える。

「それにしても——」藤田さんがビールジョッキ片手に夏南を指さす。「夏南、あんた以前、あの大手の、横浜の食品会社に勤めていたんでしょ? それなのにどうしてそんなにどんくさいわけ。要領悪すぎでしょ?」

「と、言われましても」夏南は申し訳なさそうに答える。「申し訳ありません」

 記憶障害であることを宣言するわけにはいかない。夏南は何とかやり過ごそうと努める。彼女は藤田さんとの別れも惜しいが、この機会に、今後付き合っていく京華との距離を詰めたいとも考えている。その取っ掛かりを探る。でも京華は我関せずとばかりにぐびぐびとビールを吞みつづけるばかりだ。空になったビールジョッキがどんどん掃け、新しいものにすげ替わる。夢依先生はみんなを見守りながら、酒も一定のペースに、いつもどおりにこにこしている。喩えでも何でもなく、彼女はやっぱり「先生」なのだ。

 真っ先に脱落したのは藤田さんだ。わけのわからないことを呟きながら、壁に頭を持たせかけてすやすやと眠っている。本日の主役のひとりなのに。夏南はそれを残念に思う。もっと藤田さんに結婚に対する祝福の言葉をかけてあげればよかったな、と。


 かつて夏南にも結婚を約束した相手がいる——

 そのことを夏南は唐突にフラッシュバックする。相手の横顔が映り、爽やかな笑顔でこちらを振り向く。そして暗転。部屋のドアを開ける。女の喘ぎ声。くぐもった精液の臭い。嗚咽を覚えてドアを閉めて飛び出す。まるで出口の見えない日々、その繰り返し——

 渡り鳥にでもなれたらいいのに。空を見上げるたびに彼女は雄大な鳥を眺めそう思う。私に羽があれば、きっとどこにでも行けるのだろう。この世界は、どこへ歩もうとも、行きつく先は必ず地の果てだ。


 誰かが呼んでいる。必死に肩を揺さぶっている。そこで彼女は引き戻される。現実の世界に。

「先輩!」京華が心配そうに叫ぶ。「よかった。様子がおかしかったのでどこか具合が悪いのかと……」

 夏南はフラッシュバックしていたことを隠し、とっさに弁解する。

「ごめん、ちょっと眠ってただけ」

 京華は安堵するように息を洩らす。

「夢依先生は?」夏南は身を起こして尋ねる。

「それが……急に電話がかかってきて、さっきからずっと店の外にいます」

「そう」

 夢依先生に心配をかけなくてよかった、と夏南は思う。藤田さんは横になって、いつしかいびきまでかいている。夢依先生も京華の言うとおり席を外している。今彼女は京華と殆ど二人きりといっていい。

「どれくらい寝てたかな?」夏南は尋ねる。

「二分ほどです」

「京華ちゃんは大丈夫?」

「私は全然……元アスリートなんで、色々と丈夫なんです。もちろん内臓の方も」

「京華ちゃん、アスリートだったの?」

()、ですよ。足を故障して現役を引退しましたから。一応ハードル走の選手でした。ちなみにまだ足にボルト刺さってます」

「痛そう」

「痛くないですよ」

「でもすごいね」

 夏南の無邪気さに京華は調子が狂い、むっとして横を向き、微かに照れたように頭をかく。

 夏南は手で口を塞いで考える。そしてどうしたものか迷ったのち、決心して言う。

「京華ちゃん」

「はい?」虚を突かれて京華はほぼ反射的に振り返る。

「驚かないで聞いてね」夏南は言う。「実は私ね、記憶喪失なんだ」




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