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夏夢  作者: Kesuyu
3/12

3 犇めくものたち




 料理をしているときは難しいことは何も考えなくて済む。ただ目の前の作業に没頭していればいいだけ。そのあいだは、自分が記憶喪失であることも、さして悲観すべき問題ではない。まずは日常を取り戻すこと――それがきっと私を正しい場所へと導いてくれる。

 夢依先生の家に世話になってからというもの、夏南は料理をしてみて、改めて自身の調理の工程に迷いがないことに驚かされる。おそらくは以前に——記憶喪失になる以前に——一人暮らしをしていたときから、きちんと自分で家事をこなしていたのだろう。あるいは母や祖母からの躾による賜物なのかもしれない。どのみち自身に料理の心得があることは彼女にとって大きな歓びであり、ひとつの発見でもある。私は家事ができる。できないよりは、できた方がずっといい。

 彼女は夢依先生とテーブルを挟んで朝食を食べる。アジの開き、ブロッコリーのおひたし、あさりの味噌汁、カブと人参の浅漬け。夢依先生はいつだってにこにこと笑みを絶やさず完食してくれる。米粒ひとつ残さない。ご飯をおかわりする場合だってある。だから米は少し多めに炊くように心懸けている。食後に並んで一緒に洗い物をするのも、夏南にとっては、今ではとても大切な日課だ。そうしていると、温かい繭に包まれているようで、心が安らぐ。

「夏南ちゃん」一息つくと夢依先生はテーブルに頬杖をついて言う。「今日は休診日だし、家でだらだらして過ごすのも悪くはないんだけれど、せっかくの夏だから、これから海水浴にでも出かけない?」

「え?」夏南は霧吹きでサボテンに水をやりながら聞き返す。「でも、その……私、水着持ってきてないです」

「もちろん泳がない」夢依先生は唇の端を持ち上げて言う。そのあとコップの麦茶をひとくち飲んで喉を潤す。「私なんてもうおばさんだし、日焼けだってしたくないし、だから浜から少し離れたところにパラソルを立てて、波でも眺めながら日陰でのんびり過ごしましょう。もし夏南ちゃんが泳ぎたいっていうのなら、話はべつだけれど」

 泳ぐつもりはない、と夏南はきっぱり意思表示をする。夢依先生と一緒にいる。

「じゃあ、準備しよっか」


 車中にはビーチ・ボーイズの「素敵じゃないか」がかかっている。夢依先生の運転するツー・シーターの白いスポーツ・カーは、ルーフを全開にし、その助手席に夏南を乗せて、海岸線を颯爽と駆け抜ける。眼に飛び込んでくるのはまさに文字通りエメラルド・グリーンの海。夏南は頭上ではためく麦わら帽子を左手で押さえながら、勢いよく吹き抜ける風を肌で感じる。


 太陽の光はまるでビーチのそこかしこに影を焼き付けるように容赦なく照り付けている。海には大勢の海水浴客やサーファーが押し寄せ、引いては返す波と戯れている。相変わらず蝉は、どこへ行ってもひっきりなしに、この一瞬を、命の限り、燃やすように鳴いている。

 持参したビーチ・パラソルを砂浜の上に立てると、その下にできた日陰にビニール・チェアを並べ、さらに露出した肌に日焼け止めクリームを塗ってから彼女たちは一息つく。夢依先生は偏光レンズのサングラスをかけている——家を出発したときからずっと。身体には上下セットアップのラッシュ・ガードを身に着け、紫外線対策にも余念がない。むしろ万全といった様子。一方夏南は普段どおりの恰好だ。ラベンダー色のノースリーブのシャツに白いサロペット。あまり日焼けも気にしない。麦わら帽子だって、殆ど暑さしのぎに被っているだけ。

 海の家で買ったかき氷を二人で食べながら、夢依先生は穏やかに尋ねる。

「ねえ、仕事は順調?」

「あ、はい」夏南はスプーンを下唇に当てて頷く。「藤田さんのサポートのお蔭もあって、何とかやれてます」

「そ、よかった」

 夏南は真剣な表情をしている。以前から感じていた疑問を思い切って投げかけてみる。

「あの、私の記憶って、いつかそのうちに元に戻るんですか?」

「わかんない」

「医者がそんな投げやりなこと言っていいんですか?」

「医者だからこそ、むやみに調子のいいことを言って、下手に相手に希望的観測を持たせることはできないのよ」夢依先生は天を仰ぎ、スプーンで何かしら宙に模様を描いたあと首を振る。「それも夏南ちゃんが——自覚しているにせよ、していないにせよ——自らの記憶に鍵をかけて、意識の奥底に沈めてしまったから。まるで海底に眠る宝箱みたいに」

 夏南は黙って聞いている。

「記憶——本当に取り戻したい?」

「わかりません」夏南は手に持ったかき氷をじっと凝視したまま答える。「でも自分が自分でないような気がして、ほんとの自分が何者なのかわからなくなって、たまに怖くなるときがあります」

「今はどんな気持ち?」

「落ち着いてます。夢依先生が傍にいるので」

「いいこと?」夢依先生はおもむろにサングラスを下げ、夏南の瞳を覗き込む。「もしかしたら私がうまく夏南ちゃんの記憶の在り処を捜し出して、その堅牢な箱を引っ張り上げてあげられるかもしれない。でもその代わり、取り戻した記憶が必ずしも心地のいいものだとも限らない。だってわざわざ消失させてしまったくらいだし。つまり事の次第によっては、あなたは自身の思い出したくない過去と向き合うことを迫られるわけ。あるいは幻滅し、囚われ、縛られる可能性だって十分に考えられる。そして記憶喪失の多くがショックやストレス、トラウマに起因するとも言われているのよ。ひょっとしたら凄惨な交通事故の記憶は、あなたをあなたじゃなくしてしまうかもしれない。それをちゃんと覚えておいてね」


 日が真上に差し掛かると、夢依先生が根を上げる——度重なるナンパを軽くあしらったあと、さすがにこれ以上気温が高くなるとかなわないな、と言って。砂浜は午前の日光をふんだんに吸収し、素足で踏むと火傷しそうなくらいの熱さだ。彼女たちはビーチ・パラソルやビニール・チェアを畳んで白いスポーツ・カーのトランクに仕舞いこみ、海に別れを告げるように景色を一望してから、座席に乗り込んでドアを閉める。

 近くの蕎麦屋の駐車場に車を乗り入れると、軒先の白い花壇に植えられた向日葵が盛大に客を出迎えてくれる。冷房のきいた混み合う店内の中央付近のテーブル席に腰を下ろすと、店員が早速やってきて透明のコップに入れた冷たい水を差し出す。夢依先生は店員と知り合いらしく、二言三言会話を交わすと、メニューも見ずに天ぷらの盛り合わせともりそばのセット・メニューを注文する。同じものを、と迷った挙句に夏南も注文をする。

 ほどなくして奥の座席から夏南は刺すような視線を感じることになる。一瞥すると、視線の主とはっきり目が合う。彼女と同じ年頃の若い女だ。ムラのある脱色した髪、こんがり日焼けした肌、赤いビキニ、その上には開けっぴろげのピンクのパーカー。連れの——こちらもよく日焼けをしている——がっしりとした体躯にアロハシャツを羽織った若い男の背中越しに夏南をじっと凝視している。

 日焼けした女が席を立つ。そしてこちらに向かって真っ直ぐに歩いてくる。高慢な女性特有の注目を一身に集めようとする大胆な歩き方で。目には微かな敵意の色が見て取れる。

「やっぱり、ミヨシカナ」赤いビキニの女は言った。「ヤバ……下田に出戻ったってウワサ、マジだったんだ」

 自身のフルネームを言われて夏南はどきりとする。下田は彼女の生まれ育った故郷なので、顔見知りと出くわすことだって当然あるはず。つい最近まで、実家で引きこもり同然の生活をしていたとはいえ、どうして今までそのことに気がつかなかったのだろう。それにつけ声をかけてきた女は「ウワサ」と発言している。私が帰省したことが噂になっているのだろうか? 夏南は指先が震え、徐々に空気が薄くなり、自己がほどけていくのを感じる。

「あら、岩田さん」夢依先生が顔を上げ、赤いビキニの女に笑顔で声をかける。「こんにちは。見たところ、デート中かしら?」

「山本先生」岩田さんも夢依先生に気づく。そしてかしこまった態度で挨拶をする。「べつにそんなにいいもんじゃないですよ。前々から相手の男がしつこく言い寄ってきてるってだけで。エスコートはほんと粗暴だし、見た目だってむさくるしいし、まったくタイプじゃないので、次はもうないですね」

「若いわねえ」夢依先生は眩しいものでも見るように目を細める。

「そんなことないですよ。もう二十三ですよ? 山本先生もおばさんみたいなこと言わないでください」

「だっておばさんだもの」

「先生若いですよ!」岩田さんは心底驚いたように指摘する。「肌はきれいだし、ほっそりとやせてるし、なにより美人だし……二十代半ばっていっても余裕でイケますって。うちのシンセキ連中なんてみんな使い古したゾウキンみたいにすっかりくたびれてますよ?」

「いずれ私もそうなる。人よりちょっと小柄で、童顔なだけ」

 岩田さんの連れの男が椅子の背もたれに肘を掛けてずっとこちらの様子をうかがっている。あるいは監視をしている。そしてしびれを切らしたかのように大袈裟な咳払いをする。

「あ、ヤバ、そろそろ戻りますね」

 岩田さんはそう言ってから夏南の方を向く。

「ミヨシカナ。あんた、昔とずいぶんフインキ変わったじゃない。地元に帰ってきたんなら連絡くらいしてくれたってよくない? また今度、じっくりツラ貸しなさいよね」

 夢依先生は岩田さんに向けて手をひらひらと振る。「避妊だけはちゃんとしなさいよ」

「もしゴムが必要な状況なんかになったら、金玉けとばして逃げ出してやりますよ」岩田さんは握った拳の親指を立て、昂然と席に戻っていく。

 それまでのあいだ、夏南はずっと胸を押さえたまま固まっている。夢依先生が夏南の肩に手を伸ばし、呼びかけるも、明瞭な反応は得られない。彼女はただ息苦しそうにうつむいて黙している。こんな状態では、もうとてもじゃないが食事は喉を通らないだろう。すぐにでも外気を吸わせて静かなところで落ち着かせた方がいい。夢依先生は勘定を済ませ、夏南に肩を貸して、彼女を駐車場に停めていた白いスポーツ・カーの助手席に座らせる。背中をさすり、心拍の具合を診る。ペットボトルの水を飲ませる。

 蝉時雨の中、しばしの時が緩やかに、しかし着実に通り過ぎていく。


 もちろん夏南が帰省していることは地元でのささやかな噂話となっている。下田は――雄大な自然や数ある観光スポットを別にすれば──元々刺激とは程遠い小さな港町だから。地理的にも、伊豆半島の南端からいざ遊びに行くにも不便だし、また往々にして世間話を殆ど唯一の楽しみとして生きている者だって世界中どこにでもいる。だから横浜に勤めに出てあか抜けて帰ってきた娘は恰好の話の種だ。おまけにひどく根暗だった性格も、まるで別人のように明るくなったときている。実際、昔の夏南を知っている者も、道ですれ違ったくらいでは彼女だとは気づかない。それほど夏南は見違えている。でもそのような彼女の変化を、町の人々はおおむね歓迎し、好意的に受け入れている。きっと大人になったんだ、それは大いにけっこうだ、と。

 夏南にも段々とそのことがわかってくる。自分が地元の人々の関心を集めているのだということを。ただうまく吞み込めない。町の人々は彼女を知っている。でも彼女は町の人々のことを覚えてはいない。

 それはとても奇妙な感覚だと夏南は感じる。まるで思いがけず有名になって、匿名の人たちから声を浴びせかけられているような気分が彼女を襲う。その度に夏南は胸が苦しくなり、また息も詰まる。あなたは一体誰? そして私も……

 以前の自分はどんな人間だったんだろう? 彼女は夜ごとそう思いながらベッドに入り、仰向けになる。そして天井の片隅にある焼け焦げたような一点のしみを見つめる。知りたいような、知りたくないような――その狭間でどうしようもなく心が揺らぎつづける。まるで烈しい雨の打つ水たまりに浮かぶ落ち葉みたいに。

 意識の奥底から這い出して手を伸ばす暴虐の「眠り」に摑まれて、いつの間にか現の向こう側の世界に引きずり込まれるまでは。


 朝が来る。朝食を済ますと、彼女は夢依先生にラップにくるんだ玄米のおにぎりを持たせる。これなら仕事しながらでも食べられますよね? そして二人して家の階段を下りてタイムカードを押す。


 その日の朝、夏南が出勤すると「山本診療所」の受付カウンターには、藤田さんの隣の席(いつもなら夏南が座っている席だ)に、見知らぬ女の子が陣取り、無表情に仕事をしている。にこりともしない。女の子は支給された白い制服をビシッと着こなして、カウンター内で小気味よくきびきびと働いている。黒髪のポニー・テイルを揺らしながら。

 その様子を見て夏南の心中にはまるで巨大な隕石でも飛来したかのようにどっと不安が押し寄せる。もしかして……私はもう、用済み?

 診療所の軒先の電線にはびっしり犇めいたカラスが啼きつづけ、その声は、あたかも不要品を責め立てるかのごとく、不吉に響いている。もはや耳鳴りを覚えるくらいに。




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