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夏夢  作者: Kesuyu
2/12

2 初仕事とラウンド・ミッドナイト!





「山本診療所」の駐車場に車を停めると、二人はトランクの中の荷物を運び入れる。たいした量ではない。大半が夏南の夏物の洋服だ。あとは化粧品と雑貨――本やCDなど――が少しあるくらい。「山本診療所」はもともと古い民家を少し改装したもので、二階は居住スペースになっている。そこで夢依先生はこれまでひとり寝泊りをしていたのだ。

「丁度空いている客間があるの」夢依先生は言う。「好きに使ってくれてかまわないから」

「色々と親切にありがとうございます」

 荷物を運び入れたあとは夢依先生がリビングやキッチン、洗面所を案内してくれる。間取りとしては決して広くはない。でもさほど狭くもない。調度品はどれも安物で使い込まれてはいるが、きちんと手入れをされ、整頓されている。

 夢依先生は腰に手を当てて言う。「まあ、最新の設備とはちょっと言い難いけれど、必要最低限はそろっているから、そこらへんは適当にやってね」

「はい、わかりました!」

「元気でよろしい」夢依先生がにっと微笑む。「いただいたスイカ、氷水に浸しておいたんだけれど、そろそろ冷えた頃かしら?」

 彼女たちはベランダに出て、並んで座る。そうして三角形にカットされたひんやりとしたスイカを味わう。そのあいだ色んな話をする。見渡す海は陽光を浴びてきらきらと輝き、辺りは蝉がさんざめくように鳴いている。

 このようにして夏南と夢依先生の共同生活はスタートする。


「『山本診療所』の来院者は内訳として八割が高齢者、つまりお年寄りで、患者さんの中にはインターネットも使えないっていう方が多いから、前時代的だけど事務仕事も手作業――つまりおおむねアナログ方式を採用しているっていうわけよ」

 翌朝、前任者の藤田さんは受付カウンターの隣で書類に付箋を貼りながら彼女にそう言う。

「他に何か訊いときたいことはある?」

 夏南はコンピュータのモニターに目をやる。「でもちゃんとパソコンはあるんですね?」

「そりゃそうよ」藤田さんは眼鏡の縁を手で押さえながら言う。「そこは先生の配慮っていうか、来院者の予約状況とか、色々と情報を管理する上ではやっぱりデジタルはかかせないもの。情報共有も簡単にできるしね。第一さすがにすべて手仕事だともっと人手が必要になるでしょ?」

 なるほど、と夏南は頷く。

 玄関の引き戸が乾いた音を立てて開く。老夫婦が寄り添って待合室に入ってくる。

「ほら、とりあえず来院された方の診察券と保険証をお預かりして」藤田さんが促す。「困ったことがあったらちゃんとフォローするから、まずは自分で考えてやってごらんなさい」

 夏南は緊張で声がうわずる。「は、はい!」


 昼休みになる。診療所の来院者が一旦いなくなる。院内には静けさが戻ってくる。夏南は、藤田さんと一緒に控え室で昼食をとる。

「疲れました」夏南はテーブルに身を投げ出し、顔を突っ伏す。「覚えることが多すぎです」

「初日からそんな調子じゃ、先が思いやられるわね」

 藤田さんは向かいでそう言って青いトートバッグから風呂敷に包まれた小さな弁当箱を取り出す。

 夏南は顔を上げる。「夢依先生はまだ診察室ですか?」

「ああ、先生はね、基本的にお昼は休憩取られないのよね」

「マジですか?」

「マジよ。いつも患者さんのカルテなんか見ながら、食事もゼリー飲料とかで済ませているみたい」

「ひいい」

「人のことはいいから、三好さんはしっかり食べなさい、まだまだ若いんだし」藤田さんはするすると風呂敷を解いて弁当箱を開ける。敷き詰められたご飯の上にはひじきや人参、スナップえんどうなんかで彩られている。「再来週には私ももういない予定だし、引き継ぎ調整に時間を取られて婚期逃したら責任取ってもらうわよ」

「ひいい」

「馬鹿ね、冗談よ。どんだけ素直なの?」

「素直と言いますか、その――」

 彼女は自分が記憶喪失であることを夢依先生によって口止めされていることを思い出す――周囲の奇異の目にさらされないために。下田は保守的な小さな町なので、下手に噂が出回れば、そのあと人々の心に妙な誤解や疑念、好奇を招きかねない。その結果、すれ違いや摩擦が起きてしまったとき、厭でも傷つくのは当の本人だ。彼女は力が抜けたようにテーブルにこつんと額を打ちつける。

「うう……いえ、何でもないです」

「大丈夫?」

「大丈夫です」

 そして夏南は身体を起こすと、ごそごそとリュックサックを漁り、パンダの顔をかたどった奇妙に歪んだパンを取り出して、幸せそうに食べ始める。

 藤田さんが訝しげな表情を顔に浮かべる。「どこで売ってるの、そのヘンテコなパン?」

「ひとくちいりますか?」

「いらない」藤田さんはとっさに顔をそむける。


 午後の診療を終えると、来院者がみんな帰っていく。日は傾いて、窓からは烈しい西日が差し込んでいる。待合室はオレンジ色の光によって、鮮やかな陰影が描き出される。夏南は、藤田さんの指導のもと、業務の後片付けの仕方を教わる。

「じゃあ、今日はここらで終わりにしようか」藤田さんが言う。

 夏南はきょとんとして聞き返す。「ほんとですか?」

「何?」藤田さんの眼鏡のレンズが光る。「三好さん、まだ働きたいの?」

「いえいえ、そういうわけじゃ」夏南は両の手のひらを向ける。「ただ夢依先生のお姿が見えないので……」

「ああ、先生ならいつも最後よ」

「最後と言いますと?」

「馬鹿ね」藤田さんはあっさりと言う。「残業に決まっているじゃない」

「さっき、()()()って?」

「ええ、()()()残業されているのよ」

「ひいい」


「ああ、駄目よ、ユウジ。私にはもう夫と二人の子供がいるのよ」

「ソラ、愛があれば越えられない壁などないさ」

「私なんてもうとっくに干からびたおばさんよ?」

「何を言うんだい? 君は僕の女神さ。誰よりも美しいよ」

 夏南はピンクとグレーのパジャマを着て、診療所の二階のリビングのソファで赤いハート型のクッションを両ひざに抱え、赤らめた顔を両手で覆いながら、その指の隙間から熱心にテレビ・ドラマを凝視している。すると突然、二階の玄関の方からバタンと大きな物音がする。夏南は一瞬どきりとする。見に行ってみると玄関で、夢依先生が死体のように倒れている。

「夢依先生!」

 でも声をかけてもぴくりとも動かない。

「まずはお風呂入ってください」

 夏南は、夢依先生の両脇を細い腕で抱えて、風呂場まで引きずっていく。

 そのあとキッチンで鍋に火をかける。バゲットも適当な大きさにカットする。テーブル・セットをする。冷蔵庫で冷やしておいた鯛のカルパッチョも取り出す。鍋に火が通ったら、弱火に落とす。味見をして胡椒を挽く。他にやり残しがないかをチェックしたら、ひとり頷く。そしてソファに戻り、テレビ・ドラマの続きを観る。

「ユウジ、あんたのせいで家庭が滅茶苦茶になったじゃないの! どう責任取ってくれるのよ!」

「ソラ、こっちだってスキャンダルになって大損だぜ? おまえにかまっている暇なんて一秒たりともないね!」

 何だこのドラマ、と夏南はげんなりしてテレビのリモコンでチャンネルを切ったところで、リビングにはネイビー・ブルーのパジャマ姿の夢依先生が現れる――バスタオルで髪を拭きながら。

「いい匂い」夢依先生は嬉しそうに言う。「夏南ちゃん、夕飯作ってくれたんだ?」

「はい! もう用意できているので、席に座ってください」

 彼女たちはテーブルに向かい合って座り、ソーセージとじゃがいものポトフを食べる。

「これ全部自分で作ったの?」夢依先生は感心したように口元を手で押さえる。「ひさびさにちゃんとしたものを食べたわ。生き返る。夏南ちゃんは料理ができるのね」

「いえ」夏南は首を振る。「インターネットで調べたレシピをちょっとアレンジしただけです」

「上出来よ」

「ほんとですか?」夏南の瞳の奥に光が差す。

 夢依先生は頷いてお椀を差し出す。「うん、おかわりほしいな」

「はい!」夏南はお椀を受け取る。「たっぷりあるので、遠慮せずに食べてください」

「でも何だって急に料理なんて作ってくれたのかしら?」

 夏南は真剣な表情をする。「それはですね――」


 いいこと? 先生の健康管理と身のまわりのお世話も、先生のご自宅に厄介になっているあなたの務めよ。わかったわね?


「――って藤田さんに言われて」

「あら、それじゃ、どっちが患者なのかわかんないわね」夢依先生はくすりと笑う。

 食事を終えると彼女たちはシンクの前に並んで立ち、洗い物をする。夏南が食器を丁寧に洗い、夢依先生はそれをクロスでしっかり拭いてから食器棚に仕舞う。何だか本当の家族みたいだな、と夏南は思う。夢依先生の横顔をちらりと窺う。彼女はそれに応えるように大らかに微笑む。

「夏南ちゃん」夢依先生が言う。「このあと一杯、晩酌に付き合ってくれない?」

「お、お供します!」

 後片付けが済むと二人はテーブルに戻り、また向かい合わせに座って、手に持った缶ビールをこつんと合わせて乾杯をする。リビングのオーディオからはセロニアス・モンクの「ラウンド・ミッドナイト」がかかっている。とても奥深い、秘密めいた音色だ。そんな風にして、夏南の、「山本診療所」に暮らすことになってからの夜は、密やかに更けていく。




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