1 記憶喪失の少女
事故に遭ったとき夏南は、その衝撃により記憶の大半を失ってしまう。目立った外傷はなかったが念のため精密検査を受ける。そのあと医師たちは皆一様に首を捻ることになる。それというのも、脳には、まったくもって異常を見受けられなかったし、むしろ彼女の身体からはほとばしるほどの生気がみなぎっていたから。ただ記憶だけがどこかに吸い込まれてしまったのだ。まるで巧妙な空き巣に金庫だけ運び込まれたあとの家屋のように。
「自分の名前は言える?」
白い髭をふさふさと蓄えた医師は眼鏡の分厚いレンズ越しに穏やかな眼差しを向けてそう尋ねる。まるで温厚な老犬みたいに。
「さあ、わかりません」彼女は膝の上にちょこんと両手を載せて首をかしげる。
「住所は?」
夏南は何度も首を振る。
傍で見ていた母親が膝を折り懇願するように声をかける。
「夏南、私のことはわかるでしょ? ほら、私が誰だか言ってごらんなさい」
夏南は眉を寄せ、口元に手を当てて、しばらく考え込む。そして視線を上げる。
「おばさん、誰?」
「まあ、何ていうことを言うのかしら!」母親は両手で顔を覆い、泣き崩れそうになる。「全部あの男が悪いんですよ! きっと夏南をそそのかして、ええ、そうに決まっています。それも、あまつさえ交通ルールさえ守れない……先生、あの男のほうはどうなりました?」
先生は厳格に、かつ残念そうに首を振る。「昨晩お亡くなりになりました。運転席が対向車と——大型トラックのバンパーと向かい合わせになり、殆ど即死です」
「まあ」
「ですので、娘さんがこうして満足に――事なきを得たのは奇跡と言って良いでしょう。命拾いされたのです」
母親は彼女を実家のある伊豆半島の南端に位置する下田に連れて帰る。半ば強引に。
横浜で一人暮らしをしていた夏南の勤め先の主任は、交通事故の件を知るとひとまず「休職願」を受理する。「今回の件はお気の毒でした。容体が回復したならば、いつでも帰ってきてください。万が一復帰する意思がないのであれば退職金も支払います」
太陽の光を帯びた青い海上にはウミネコが飛び交っている。
幾分くたびれてはいるが立派な屋敷で彼女は几帳面な母と厳格な祖母との三人でつましく暮らすことになる。でも生活能力以外の記憶をほぼすべて失った彼女にとってそれは、他人と寝食を共にすることに等しい。常に居心地の悪さがつきまとう。息の詰まる思いだ。ただ一人暮らしをするには生活力が——つまり仕事が必要となる。でも重度の記憶障害の私を雇ってくれる職場が一体どこにあるのだろう?
「あるよ、仕事」
夢依先生は咥えていた煙草をそっと口から離し、虚空を見据えて煙を吹いたあと、振り向いてそう言う。
そこは夏南が記憶喪失により通院している「山本診療所」の裏手にある海を見渡せるスポットだ。夢依先生は休憩のときはときおりここで煙草をくゆらせる。彼女は黒髪のショート・ヘアの三十代の女性で、町では評判の美人なのに独り身ということもあり、町の人たちはいつもそのことを不思議に感じている。
でもそんなことは夏南には知ったことではない。夢依先生の言葉を聞いて、彼女は驚きとともにあご先で手を合わせ、瞳を輝かせる。
「ほんとですか?」
夢依先生は首を大きく右にかたむけてにっこりと笑う。
「もちろん」
「どこにあるんですか、仕事」
空を渡る野鳥が心地よさげに啼いている。自然豊かな下田には野鳥がたくさん訪れる。それを目当てに少なくない観光客も訪れる。
夢依先生は細い指でもう一服煙草の煙を吸い込んだあと、羽織っている白衣のポケットから銀色の携帯式灰皿を取り出して、煙草の火を丁寧に揉み消し、そこに吸殻を詰める。
「夏南ちゃん、以前は何の仕事していたんだっけ?」
「えっと――」夏南は右の拳をあごに当てて考える。「食品会社の事務全般だそうです」
でも彼女には以前の記憶がないので、自分のことを話していても、まるで他人のことを話しているような感覚を覚える。言葉がふわりと風に乗り、足下には二頭のモンシロチョウが仲睦まじげに戯れている。
「だったら安心ね」夢依先生は両手を白衣のポケットに突っ込んで微笑む。「前の職場に比べたら、あまり高給とは言い難いかもしれないけれど、その分、それよりはずっと楽な仕事だから」
「あの……何の話をされているんですか?」
「もうすぐうちの――『山本診療所』の――受付で仕事してくれている女の子が、寿退社しちゃうのよね。丁度代わりに働いてくれる若くて元気な人を探しているってわけ」
当然のことながら夏南の母と祖母は彼女が家を出て働くことに対して最初は猛然と反対する。でも仕事を紹介してくれた夢依先生の名前を出すと、急に言葉を詰まらせ、大人しくなる。
「記憶喪失の件を含め、夏南さんのことは私がしっかりと責任を持って面倒をみます」
決め手は夢依先生自らの説得だ。彼女はいつだって森の大木のように穏やかだったし、町では「仏様」のようだと評判だったので、母と祖母も「むしろ夢依先生の傍に置いておいた方が夏南の記憶も回復するかもしれない」と考える。というのも、交通事故の件以来夏南は家族に対して常に他人行儀な言動を取るようになってしまったから。それが切なくて、どうしても昔のように接してほしかったのだ――どれほど代償を求められようとも。母親に関していえば、今ではご利益があると噂の神社で熱心に参拝をするのが日課ともなっている――藁にもすがる思いで。
週末、夢依先生がツー・シーターの白いスポーツ・カーを運転して、彼女を迎えにやってくる。夏南が荷物を車のトランクに詰めているあいだ、夢依先生は玄関先でにこやかに母親と祖母と立ち話をしている。
「くれぐれも夏南のことをよろしくお願いいたします」
「任せてください」
炎天下の中、夏南が額に大粒の汗をかきながら荷造りを終えると、夢依先生がやってきて丸まったポリ袋を持ち上げて見せる。
「スイカもらっちゃった。あとで冷やして、一緒に食べよう」
そしてスイカもトランクに押し込む。
空には灼熱の太陽が――ここ下田においても気象庁は連日猛暑日を観測している。
夏南は車の助手席で夢依先生のスムーズなハンドルさばきを感心して観察している。こうして隣で座っていても、運転による振動を微塵も感じられない。
「夏南ちゃん」
「はい?」じろじろ見すぎたのかな? と夏南は戸惑う。
「せっかくのお天気だから、車の冷房切って屋根開けてもいいかな?」
夏南は顔を上げる。目の前には澄んだ夏空ときらめく海が広がっている。
「あ、はい! もちろんです!」
スポーツ・カーのルーフがゆっくり開くと途端にむっとした風が車内に舞い込んでくる。同時に夏南の長い髪も後ろになびく。ついでに夢依先生は鼻歌まじりにラジオのFM放送を慣れた手つきでつける。カー・ステレオからはドビュッシーの交響詩「海」が流れてくる。