夏まつり
私は、打ち上げ花火が嫌いだ。
静寂の中、大きな音をあげて空に咲く、大輪の花。
色とりどりの光が夜空に散りばめられ、歓声とともに一瞬を彩る。
そして、白い煙とともに儚く、夢のように消えていく。
多くの人は、その美しさや一瞬の輝きに心を奪われるのだろう。
私も、夜空を舞い上がる花火を見て、心が躍ることはある。
——それでも。
どうしても、花火を見るたびに、あの日の後悔が胸の奥からふつふつと湧き上がってくる。
もし、あの夜、あなたを引き留めていたら。
もし、一緒に帰っていたら。
もし、好きだと伝えられていたら。
運命は、変わっていただろうか。
◆ 一年前、夏祭りの夜
思いのほか長引いた補習が終わる頃には、空は深い茜色に染まっていた。
校舎の外に出ると、潮の香りをほんの微かに含んだ風が首筋を撫でる。
昼よりも夕方の方が潮風を強く感じるのなぜだろうか。
それはさておき——。
私は通学鞄からスマホを取り出した。
画面には、夏希からのメッセージが二件。
『結衣、補習終わった?』
『鳥居の前で待ってるよーー』
やば、急がないと。
『今終わった、すぐ行く』
そう返信すると、私は駆け足で夏希の待つ神社へ向かった。
道行く人々は、みんな私と同じ方向へ歩いている。
お揃いの浴衣を着たカップル、手を繋いだ親子連れ。
今日は、年に一度の夏祭り。
そして、私の運命の日でもある。
私は今日、幼馴染の夏希に——告白するつもりだった。
◆ 鳥居の下で、待っていた君
集合場所の赤い鳥居に着く頃には、日はすっかり沈み、夜風が火照った体に心地よかった。
鳥居のすぐそばで、夏希が待っていた。
黄色の浴衣に、いつもとは違うお団子ヘア。
上げられた襟足が、なんだか眩しくて。
「……なんか、特別な夏希って感じ。」
そんなことを思った自分に、胸がざわめく。
彼女に話しかける前に、私はそっと手鏡を取り出した。
髪型よし、リップよし、表情よし……問題は、補習のせいで浴衣じゃなく制服なことくらいか。
夏希の浴衣姿を見てから、胸のざわめきが止まらない。
「……ただ友達と会うだけなのに、緊張しすぎでしょ、私。」
スゥ、と深呼吸。
気持ちを落ち着けて、夏希に声をかけた。
「ごめん、お待たせ。」
「もう、遅いよ!」
怒ったふりをしながらも、彼女は笑っていた。
「さ、行くよ、結衣! 早く早く!」
「そんなに急がなくても祭りは逃げないでしょ。」
「違うの! 花火が始まる前に、行きたい出店ぜんぶ回るって決めたの! だから早く!」
そう言って、夏希は私の手をぐいっと引いた。
浴衣の袖がひらめいて、ひまわりの花模様がふわりと揺れる。
まるで、本物の花が咲いたみたいに。
——本当に、綺麗だった。
◆ 金魚すくいと、びしょびしょの袖
「あっ! 金魚すくいだ!」
夏希が突然立ち止まる。
金魚すくいの屋台を見つけて、子どもみたいに目を輝かせている。
「……またやるの?」
「うん! 今年こそすくってみせる!」
夏希は意気込んで屋台に駆け寄る。
私は静かに息を吐きながら、その後を追った。
水面を泳ぐ金魚たちは、まるで私たちを試すようにすいすいと動き回る。
「よし、まずはこの子を……!」
夏希が狙ったのは、ひときわ素早く泳ぐオレンジの金魚。
——絶対無理なやつでしょ。
バシャッ!
「……えっ、もう破れた!?」
「やっぱり。」
「なにそれ!? もう一回!」
夏希は再びポイを手に取る。今度は慎重に、水にそっと入れて——
バシャッ!
「うわっ!? また破れた!?」
「だから、力入れすぎだってば。」
「むぅ……次こそ!」
夏希は頬をぷくっと膨らませながら、追加のポイをもらう。
今度こそ、と慎重に動かすが——
バシャッ! ビリッ!!
「うぅぅ、あとちょっとなのに……!」
もう何枚目のポイだろう。
夢中になりすぎて、夏希の浴衣の袖は水に濡れていた。
「……そんなに夢中になって、袖びしょびしょだよ。」
「えっ?」
自分の浴衣の袖を見て、ようやく気づいた夏希は、
「……ほんとだ。ふふっ、やばいね。」
と、いたずらっぽく笑った。
その横顔が、やけに無邪気で。
子どもみたいに楽しそうで。
とても、可愛かった。
◆ ふわふわの綿菓子と、少し遠くなる距離
「ねえ、綿菓子食べたい!」
夏希は金魚すくいの悔しさも忘れて、屋台の前ではしゃいでいる。
「好きにしなよ。」
「やったー!」
彼女は嬉しそうに、大きなふわふわの綿菓子を買う。
一口かじると、目を細めて笑った。
「んー! おいしい!」
「よかったね。」
「結衣も食べる?」
「……いらない。」
「えー、美味しいのに。」
頬を膨らませながら、夏希はまた綿菓子にかぶりつく。
そんな彼女を見ているだけで、十分だと思った。
——だけど。
次の瞬間、夏希の表情が少しだけ変わった。
「……?」
視線を追うと、彼女の友達の姿があった。
「あ、ちょっと行ってくるね。」
綿菓子を片手に、夏希は軽く手を振ると、私から少しだけ距離を取った。
たった数歩。
でも、それがやけに遠く感じた。
夏希は友達のもとへ行き、楽しそうに笑いながら話し始めた。
——私といる時より、少しだけ大きな声で。
◆ 戻ってきた君と、線香花火
「結衣ー!」
少しして、夏希が戻ってきた。
「もういいの?」
「んー、まあね。ちゃんと待っててくれてるかなって思って。」
私は苦笑して、肩をすくめる。
「……バカだな。」
夏希は「ひどーい」と言いながら笑って、私の袖を引いた。
「ほら、ちょっと静かなとこ行こ?」
祭りの喧騒から少し離れた神社の境内。
誰もいない石段に、私たちは並んで座った。
私は鞄から、小さな箱を取り出す。
「……線香花火、やる?」
「やる!」
夏希はぱっと笑って、私の手から花火を取る。
マッチを擦ると、小さなオレンジ色の火が灯る。
細い火花が、かすかに揺れる。
祭りの光とは違う、静かな炎。
夏希はじっと、それを見つめていた。
「ねえ、結衣。」
「なに?」
「今年の夏、楽しかったね。」
「まだ終わってないけど?」
「うん。でも、こうやって線香花火してると、なんか“終わり”って感じがする。」
夜風が吹く。
夏希の浴衣の袖が、ふわりと揺れた。
私は、花火の炎と彼女の横顔を交互に見つめる。
——今なら、言えるかもしれない。
「ねえ、夏希。」
「なに?」
「夏希ってさ、好きな人いる?」
線香花火の先で、小さな火の玉が揺れる。
夏希は、少し驚いたように私を見た。
「どうしてそんなこと聞くの?」
「……なんとなく。」
夏希は少しだけ考えるように視線を落として、ゆっくりと口を開く。
「……いるよ。」
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
「へえ……どんなやつ?」
線香花火の火が、じりじりと小さくなっていく。
夏希は、火の玉を見つめながら、小さな声で言った。
「……一緒にいると落ち着く。」
「ふーん。」
「意地悪なこと言うとすぐ『うるさい』って言う。」
「……ふーん。」
「手を繋ぐと、たぶんすごくドキドキする。」
「……。」
心臓が跳ねる。
夏希の指先が、ほんの一瞬だけ私の指に触れた気がした。
気のせいじゃない。
そっと視線を向けると、夏希は小さく微笑んでいた。
「結衣?」
「……なに?」
「もうすぐ、花火が上がるよ。」
彼女の声が優しくて、胸が苦しくなる。
私は何かを言いかけて、けれど、次の瞬間——。
ポトッ。
線香花火の火の玉が、地面に落ちた。
オレンジ色の光が、静かに消える。
ちょうどその時——。
ドン——。
打ち上げ花火が、空に咲いた。
辺りが、一瞬、鮮やかな光に包まれる。
夏希が、ぱっと目を輝かせて顔を上げた。
「わぁ! 始まった!」
私は、開きかけた口をそっと閉じる。
好きだって、言おうとしたのに。
◆ 帰り道、並んで歩く影
花火が終わり、境内の灯りが少しずつ消えていく。
空にはもう花火の名残もなく、白く霞んだ煙が漂うばかりだった。
「……そろそろ帰ろっか。」
夏希がそう言って、私たちは神社を後にする。
帰り道は、昼間より少しだけ涼しい風が吹いていた。
蝉の声も、さっきよりずっと遠くに聞こえる。
「ねえ、結衣。補習終わったらさ、どっか遊びに行かない?」
「……まだあるの知ってた?」
「知ってるよー。だから、そのご褒美!」
夏希はくすっと笑いながら、私の半袖の袖をちょん、と引く。
「頑張って一緒に卒業しよーね。」
「……うるさい。」
口ではそう言いながら、私は夏希の笑顔に少しだけ救われていた。
並んで歩く私たちの影が、街灯の下でゆらゆらと揺れる。
さっきまでの賑やかな祭りが嘘みたいに、夜道は静かだった。
ふと、夏希が歩くスピードを落とす。
「ねえ、結衣。」
「ん?」
「今日さ、なんか言おうとしてなかった?」
——ドキッとする。
「……別に?」
誤魔化すようにそっぽを向く。
「そっかぁ?」
夏希は何かを言いたげに、じっと私の横顔を見つめた。
でも、それ以上は何も言わずに、また前を向く。
——たぶん、夏希も気づいてる。
私の気持ちも。
夏希の気持ちも。
それでも、まだ、言葉にはできない。
打ち上げ花火の音にかき消された「好き」は、
次の夏まで、取っておこうと思った。
◆ そして、次の日
夏希が、死んだ。
次の日の朝、学校に行くと、教室はざわざわとした雰囲気に包まれていた。
「……え?」
何かが、違う。
いつもの日常じゃない。
「昨日の夜、事故にあったんだって……。」
クラスメイトの声が、遠くで響く。
——昨日の夜?
頭が真っ白になった。
「夏希、祭りの帰り道で車にはねられたって……。」
耳鳴りがする。
手のひらがじっとりと汗ばむ。
「……うそ、でしょ。」
気づいたら、椅子に座っていた。
机の上に、ぐしゃっと顔を伏せる。
昨日、最後に見た夏希の顔が浮かぶ。
線香花火を見つめる横顔。
「来年も一緒にいられるかな?」なんて、そんなことを言っていたのに。
「好きな人いる?」と聞いたら、
まるで遠回しに、私のことを言っているような目で、見つめていたのに。
それなのに。
もう、二度と会えないなんて。
打ち上げ花火の音にかき消された「好き」は
もう、どこにも届かない。
◆ そして、一年後
蝉の声が降るように響く。
夏の風が、遠くの草木を揺らしていた。
私は、静かに立ち尽くす。
目の前には、石でできた無機質な墓標。
そこに刻まれた名前を、指先でなぞる。
——藤崎 夏希。
まるで、そこに夏希がいるかのように。
でも、どれだけ呼んでも、もう応えてくれることはない。
夏祭りの夜から、もう一年が経つ。
あの夜、私のすぐそばで笑っていた夏希は、
もうどこにもいない。
「夏希……」
名前を呼ぶと、夏の風が吹いた。
まるで、君が「何?」と振り向いたみたいで——
ほんの一瞬だけ、目の前が滲んだ。
——今さら、泣くなんて。
私は、持ってきたひまわりをそっと供える。
夏希が好きだった花。
彼女の浴衣と、同じ模様の花。
「夏希、あれからもう一年経つね。」
言葉にしながら、心の中で問いかける。
——君は、どこにいるの?
線香花火の光を見つめていた、あの瞳。
金魚すくいに夢中になって、袖をびしょびしょにしていた横顔。
綿菓子を頬張りながら、「美味しい!」って無邪気に笑った声。
全部、思い出せるのに。
でも、どこを探しても、君はいない。
風が吹いて、どこかから夏の匂いがする。
思わず、心の中で呟いた。
——君がいた夏は、遠い夢の中。
「でも、まだ君のことを忘れられないんだ。」
本当は、忘れたくないんだ。
私は小さく笑う。
「そうだな……」
風が吹く。
夏希の声が、ふっと聞こえた気がした。
「あと百年経てば、忘れられるかもしれないな。」
——嘘だ。
百年経ったって、君のことを忘れられるわけがない。
そんなこと、もうわかりきってるのに。
夏の風が、ひまわりの花びらを揺らした。
私はそっと目を閉じ、静かにその場を後にした。
まるで、君と並んで帰った、あの夏祭りの夜のように。