あたしが黒幕なんだよ
やはり歳だろうか。隣りの家のおばさんが呆け始めた。「あたしがこの国の経済停滞の黒幕なんだよ」と得意気な目でよく自慢している。おじさんがずっと家にいるから大変だとか不満を漏らしていたのに、ここのところはそればかりだ。呆けにしても、もう少しいい話題があるだろう。たとえばあっちで話題になっているあの集まりとか。
役所の前に看板掲げて抗議する人が日に日に増えて、「物騒になってきたねぇ」と近所の人と、車を避けてよく話している。適当に頷いては「何が正しいかわかんないねぇ」とまたうんうんとする。そうやって日常を流すものだけれど、隣のおばさんがニヤニヤして寄ってくると「実はあれ、あたしのせいなんだよ」とつまらない冗談をしてくる。べつに温まっていた空気話題じゃなくても、冬の風はこんなに冷たかったかと家に戻りたくなる。
実のところ私たちはそういう生き物な気がする。災いがあれば寄ってほしくないし、寄ってきたのなら隣人に擦りつけて逃げる。ある種姑息ともいえる。そして人間ってそう言うものだと噂する。さらに言えばテレビをつけてはその内容よりも話題になるか、他の人が話したときに置いて行かれないようにと、スマホのパズルゲームと、上からたびたび聴こえる夫の咳交じりに聴いている。
とはいえ隣りのおばさんのこのジョークは耳が酷く悴む。私のそういう日常を馬鹿にするようにニヤつくのだから、どうでもいいが、うんざりする。それも毎日、毎日、続けば避けたくなるし、避けても割り込んでくるから言い返したくもなる。いざこざになるから誰もしないけれど。
そんな少し変人がかった日常は、パトカーの真っ赤なサイレンの騒がしい光に染まって、終わりを告げた。隣りの家のおばさんが逮捕されたのだ。近所の人と抗議団体の不祥事を噂していたその隣を、眩いパトカーが通ったと思ったら、警察が隣りの家にズカズカと入っていって、おばさんに手錠をかけて出てきたのだ。
なにがあったのだろう。ボケが回って万引きでもしたのかと近所の人と予想したものの、光が去って家に帰ると驚いた。テレビの画面いっぱいにおばさんがあって、しかも某国のスパイと映っていたのだ。おばさんは本当に黒幕だったのだ。何が正しいかわからない世の中とはいえ、あのおばさんがそんな悪人とは信じられなかった。
それから何かが変わったわけではない。衝撃的な事件があっても同じ様な日常が繰り返されれば、まるでなかったように忘れ去られる。誰もいない家も気にならなくなり、近所の話題にもならなくなった。
そうしていつものように近所の人と適当な話していた日常、パトカーが私たちの横を通った。「物騒だねぇ」とお互い頷いて眺めていると、あれは私の家に止まっていた。驚きのあまり固まり震える近所の人に、私は呆けた。「物騒だね」と。