5 黒い心
その噂を聞いた時、ジーンは体中の血が冷たくなってさっと下がるのを感じた。もしかしたら自分がミーヤなんていなくなればいい、そんな黒い心を持ったからではないかと考えたからだ。
幼い頃から母に言われていた、人を妬んだり恨んだりする気持ちを持ってはいけないと。そう言われてはいたが、やはり今の道を選ばざるを得なかった時にはジーンは色々なことを恨んだ。どうして自分が身売りをしなければならないのか、どうして娼婦なんかにならなければならないのか。どうして父は仕事に失敗したのだろう。どうして母は自分がそんなことになることを受け入れたのだろう。自分がこうなることで妹たちだけは両親の元にいられるのはどうしてなのだろう。
それなりに裕福な家の子であったジーンは教育も受けていたし、明るい未来を夢見ていた。それがある日、父が真っ青な顔をして家族に全てを打ち明けた時から何もかもが変わってしまったのだ。
覚悟してこの道を選んだつもりだった、家族のためにそうなるのだと。だが心の奥底にはずっと、どうしてそれが自分なのかと家族を恨む気持ちもあった。それは今も残り続けている。
仲間の中にはそうして身を落とした挙げ句、今でも家族から金を無心されている者もある。仕送りを続け借金ばかりが増える者もあるが、ジーンの家族はそれだけはしなかった。
それは自分がこちらに来る時にもういなかった者としてくれ、縁を切ってくれと言ったからかも知れない。妹たちには娼婦の姉などいない方がいい。だから互いのためにいなかったことにした、連絡を取ることはない。もしも借金を返し終わった後、この仕事をやめてもよくなった時にも、おそらく家族の元に帰ることはないだろうとジーンは思っている。家族に会いたい気持ちはなくはない。だが、こんな風になってしまった自分を見せたくはない、その気持ちの方が大きい。
汚れていない元の自分に戻ることはない、それならばもう過去の自分を捨ててしまい、新しく前に向かって歩いて行くことだ。それしか自分に道はないとジーンは思っていた。
その道の始まりに出会ったのがトーヤだった。運命を感じ、ずっとこの人といられたらと思う気持ちが強くなりすぎて、その人が大事に思っている人がいなければいいと思ってしまった。きっと自分のせいだ、自分がミーヤを羨み、嫉妬からの憎しみを持ったせいだ。ジーンは罪深さにどうしていいか分からなくなってしまった。
さらにその頃からトーヤが全く来なくなった。ミーヤが病気だということだからそのせいだろうと女将は慰めてくれたが、ジーンにはどうしてもそれだけとは思えず、一人で暗い気持ちを抱える日々を過ごすことになった。
きっともうトーヤは来てくれないはずだ。それが自分に科せられた罰なのだ。そう思って打ちひしがれていると、思わぬことにトーヤがいつものようにひょこっとやってきてジーンを相方に指名した。
ジーンはうれしいと思うと同時にやはり気になって、ミーヤのところに行かなくていいのかと聞いてみた。
ジーンの言葉を聞くとトーヤは苦虫を噛み潰したような顔になり、こう答えた。
「やっぱりもうおまえも知ってたか。まあ、今はディレンが付いてるからな。ご隠居もいるし、もう少ししたらモラークも来る時期だ。交代でそばにいてやりゃいいだろう。俺がいても何もできることはないんでここに来た」
ディレンはミーヤの一番の旦那だが、そういえば一年ほど前になぜだか危険なことをして持ち船を失ったと聞いている。今は雇われの船長だか船乗りだかをやっているとか。ご隠居とは聞いている通りもう一人の旦那、そして初めて聞くモラークという名は3人目の旦那だという若い船乗りだろう。
ジーンは恐る恐るミーヤはいつ頃から悪かったのかと聞いてホッとした。聞いてみると実はもう1年以上前から病気ではあったらしい。トーヤが知ったのは半年ほど前だが、その頃にはもう助からない病だと分かっていたという話だ。ということは、ジーンがミーヤにいなくなってほしいと思うよりずっと前のことになる。自分のせいではなかったようで、ジーンは安堵した。そして安堵したことにまた気持ちが落ち込む。
トーヤはその頃からは長い仕事には行かず、度々戻っては薬や栄養のつく食べ物などを差し入れていたようだ。そして言われてみればとジーンも思い出す。その頃からトーヤが来る回数が増え、その期間が短くなっていた。それまでより早く戻れる仕事だけを選んでいたのだろう、できるだけミーヤの元に戻れるようにと。
今はトーヤは戦場には行かず、用心棒などの短期でできる仕事を選んでいた。そして他の旦那がいる時にはジーンのところ、誰もいない時にはミーヤのところを行ったり来たりの生活になった。
「迷惑かけるな。どうしても他の客がいるとか邪魔な時はよそ行くから言ってくれ」
とトーヤに言われたが、ジーンはできる限りトーヤを優先して部屋を空けるようにしておいた。他の客が来なくてもその分の金は払ってくれること、それからミーヤの具合が悪くなっていることもあり、女将も了承してくれた。
それからほどなくしてのことだ、ミーヤが死んだのは。