地獄のお値段
「今ですと……85円ですね」
「えっ……」
伝えられた買取金額を聞いて、私は一瞬固まったまま、ぼんやりと店員を見つめた。まだ高校生くらいの、茶髪でボサボサ頭のアルバイトは、怠そうに欠伸を噛み殺している。ショックだった。自分で言うのも何だが、もうちょっと値が付くと思っていた。85円って……それくらいにしかならないのか。私の『失恋』は……。
「どうされます?」
「え……えっと、だったらこの『記憶』も! 追加で買取してください」
私は慌てて右耳から『記憶装置』を抜き取った。待って。待って、これじゃ交通費の方が高いじゃない。わざわざ電車を乗り継いで此処まで来たってのに、このままじゃ帰れない。
「これと……それからこれも……」
「えーっと、『夏の苦い思い出』に『温泉旅行での失敗』ですね。分かりました。査定が終わりましたらお呼びいたしますので、番号札を持ってお待ちください」
店員は204番、と書かれたプラカードを私に手渡して、さっさと奥に引っ込んで行った。それで、店外にある買取カウンターにポツンと1人取り残される。外は肌寒かった。暇潰しがてら、私はふらっと店内に立ち寄った。
『虎馬空間 〜記憶中古販売店〜』。
”要らなくなった貴方の思い出、忘れてしまいたい苦い記憶……トラウマ、PTSD、黒歴史……高価買取いたします”……扉を潜ると、虎のような馬のような珍妙なキャラクターの下に、そんな文字が踊る。平日の昼とあってか、店内に客はまばらだった。私は興味本位にガラスケースに近づき、陳列された『他人の記憶』を眺めた。
『《閲覧注意!》2年付き合った彼との修羅場』¥2980
※2年付き合っていた彼氏に浮気されました。2年分の、彼の冷淡で、ガサツで、幼稚で、下劣な場面の詰め合わせと、当日の修羅場の記憶です。一部暴力的なシーンがございますので、閲覧にはくれぐれもご注意ください。
『パワハラ上司の暴言集』¥1980→¥1580(セール中!)
※前の職場にいたパワハラ上司の暴言集です。おまけに、職場に警察がやって来た時の彼の受け答えも付けています。結構笑えます。
『姑いびり耐久240分ノンストップ -Remix- 』¥4980
※2024年に発売された『姑の小言』をネットの有名ビートメイカー・DJ TANAKAがリミックス。さらに韻も固く、夫(a.k.a.息子)を挟んで、バチバチの嫁姑バトルを再録。こちら初回限定特典の『姑アクリルスタンド』は付属しておりません。
私はほぅ……と息を漏らした。どれもこれも……怖いもの見たさと言うか……ちょっと覗いてみたいような記憶ばかりである。
記憶の売買。
脳医学が発展し、人類が記憶を自由に消去・更新できるようになって早数年が経った。脳内に直接SSDを埋め込むことによって、人類は最大100TBの記憶領域を増設可能になった。当初はアルツハイマーの治療や診療内科など医療分野で使用されるのみだったが、技術が発展し市井の人々にまで記憶装置が普及すると、やがて市場には新たなビジネスが生まれた。
それが記憶の商品化であった。
あなたは、他人のプライバシーを覗き込みたい、という欲望に駆られたことはないだろうか。
好きな人のことをもっと知りたい、有名人の私生活が気になる……それが道徳的に正しいとか正しくないとかの話ではなく、毎週コンビニに並ぶ下世話な週刊誌や、ヒッチコックの『裏窓』を持ち出すまでもないが、とにかく世の中にニーズがあり、科学はそれに応えた。
今や他人のプライバシーは庶民の娯楽になった。前世紀には、その役目が自伝映画だったり私小説だったりしたのだろうが、『記憶装置』の登場によって、人々は『他人の記憶』をデータとしてダイレクトに、まるで『自分の実体験』のように感じられるようになったのだった。
あらゆる感動も感情も、直接脳に流し込まれるようになった。
昔はよく国語の問題で、『この時の主人公の気持ちを答えよ』なんて問いがあったのだが、今ではそんなもの、想像する必要もない。いつだって自由に自分自身が物語の主人公になれるのである。
それは文字通り、なれる。感情移入なんてレベルではなく、本物の記憶として。
そして市場で良く売れるのは……辛い記憶、不幸な記憶だった。
もちろん『幸福な記憶』も出回ってはいたが……他人の『自慢話』なんて正直ちっとも面白くない。それよりも、いつだって他人の不幸は蜜の味。
世の中にはこんな不幸な目に遭っている人がいるのか。
それに比べたら、私は何て幸せなんだろう。
人は自分の不幸を過大評価、そして他人の不幸を過小評価しがちである。憐憫の裏に隠した優越感……他人の地獄を上から覗き込んで、自分は違う、自分はコイツよりマシだと安心したい。そんなごくごく普通の人々に、『不幸な記憶』は良く売れた。
「204番でお待ちのお客様〜」
店内放送で番号を呼ばれて、私は慌ててガラスケースから顔を離した。
「合計で250円です」
「……売ります」
そう言うバイトの前で、私は掠れた声を絞り出した。正直全く納得行かなかったが、手ぶらで帰るのは何だか悔しい。今のこの記憶には、感情にはいくらの値打ちがあるんだろう? そんなことを考えながら、私はトボトボと家路に着いた。
わざわざ実店舗にまで足を運んだのに、たった250円にしかならないなんて。どうせ後から、私の記憶、1000円くらいで売る気なんでしょう? 何が高価買取よ、全く阿漕な商売ね! ……なんてことは口には出さない。どうせ忘れたい記憶には変わりなかったのだ。さっさと手放せて清々している。
不幸が金になる時代。中には金になるからと言って、警察に捕まりましたとか病気になりましたとか、自分から不幸に成りたがる『ビジネス不幸』すら出てきて、ちょっとした社会問題になっている。おかしなものだ。みんな最初は、幸せになりたかったはずなのに……奴隷の鎖自慢のようなものが、いつの間にか世間に蔓延している。かく言う私も、人のことはとやかく言えないのだが……。
家に帰ると、購入した3枚の地獄……修羅場、暴言、嫁姑……をベッドの上に投げ出し、私は着替えを済ませた。そのままUターンするように玄関から飛び出ると、職場へと向かう。夜の仕事だった。路地裏の片隅に小さなテーブルを広げ、私は新たな獲物……もとい、顧客が来るのを待ち続けた。
「あのう……」
しばらくすると、20代くらいの、スーツ姿の若い女が、おずおずと私の方に声をかけてきた。私は水晶に手を翳しながら、口端を上げ、いらっしゃい、と囁いた。
「教えてください、私はどうしたら幸せになれるでしょうか……?」
「……安心なさい、貴女はきっと幸せになれますよ」
「本当ですか……!?」
「ええ、もちろん」
頭上では妖しげに星が瞬く。真剣な表情で前のめりになる女を見て、私はほくそ笑んだ。
さて、この女を地獄に突き堕としたら、一体いくらになるだろうか?