なぜまだ挑み続けているのか ?「パート3」
ふんいきはびょうのようにすぎて、ひかるおばさんのくちからでることばひとつひとつで、わたしのこころぞうはどんどんはやくなっていきました。おばさんは、あのがっこうでのさんねんかん、のりこえなければならなかったさまざまなじゃまものについて、ひとりひとり、どうやってともだちとよべるようになったひとたちをしょうかいしてくれて、いっしょにすごしたたいせつなたいけんについてはなしてくれました。わたしには、そういうせいととしてのせいかつはなかなかそうぞうできませんでした。せんせいとせいとがたがいにかんしょうしあうがっこう。APAのないくに。
「ほんとうよ、みのる。めがねのメモリにたくさんのしゃしんがほぞんしてあるの。とってきてみせてあげるから、ちょっとまっててね。」
そういって、おばさんはせきをたち、バッグがおいてあるおもてのへやへむかいました。すうびょうご、かのじょはうちゅうめがねをかけてせきにもどってきました。
「じゅんびできた?」
「は、はい!」
それから、ボタンをおすだけで、あのとくちょうてきなおととともに、しゃしんがいちまいずつわたしのうちゅうめがねへおくられてきました。
「ビープ」
ひとつひとつのしゃしんが、わたしのめのまえに、まるでながれぼしのようにうちゅうめがねをとおしてあらわれました。しゃしんのなかには、よにんのひとがうつっていました。ふたりのおとことふたりのおんな、そしてそのなかにはおばさんもいました。
そのしゃしんには、おばさんがともだちといっしょにすごしたさまざまなばしょがうつしだされていました。きゅうけいじかんのおわりをつげるチャイムをまちながら、つくえをならべてきょうしつでおしゃべりしているすがた、まっさおなそらのした、がっこうのやねうらでおひるごはんをわかちあっているようす、ろうかでぐうぜんであったせんせいとわらいあうすがた、ほうかごにともだちとすごしているようす、そしてまだまだたくさんのじょうけいがうつされていました。
たくさんのしゃしんにおさめられたひとこまひとこまが、わたしのからだじゅうをふるわせるほどでした。
「ぼくも、こんなせいとかつどうをおくりたい!」
そうさけびたいきもちでいっぱいになりました。おばさんがあるいたおなじみちをたどりたいというねがいにしずんで、わたしはおばさんにたずねました。
「ぼくも、そのがっこうにいけるとおもう!?」
「ざんねんながら、かいがいでべんきょうするためのしょうがくきんは、ずっとまえになくなってしまったの。もうしっているはずだけど、日本のこっきょうはほかのくににはとざされていて、とくべつなきょかがないとにゅうこくもしゅっこくもできないのよ。」
「そうだね…」
わたしはしゅんとしながらおばさんにこたえました。すると、おばさんはめがねをはずし、めをふせながらくびにかけているメダルをなで、なつかしそうなひょうじょうをうかべました。
「ねぇ、みのる…。あのさんねんをすごしてにほんにもどってきたとき、わたしはすでにきょうしになるためにべんきょうしようとけっしんしていたの。だいがくににゅうがくしたあと、かいがいでともだちとすごしたすてきなたいけんを、にほんでもふたたびさいげんしたいとおもったわ。でも、こくふくするのがとてもむずかしいもんだいにぶつかってしまったの。」
「もんだい?」
「いいかえれば、APAのことよ。いちねんかん、クラスメートにちかづこうとなんどもなんどもこころみたけれど、さいごにはあきらめてしまった。それに、にほんのせんせいがせいとにたいしてはたすやくわりをみて、わたしはきょうしになるためのべんきょうをやめることにしたの。」
そのとき、わたしはきづきました。じつにあたりまえのことなのに…もしかして、わたしがそれをつかっているからなのか?APAがにほんにあるかぎり、そしてひとびとがそれをつかいつづけるかぎり、おばさんがみせてくれたしゃしんのどれも、わたしのじつげんにはほどとおいものでした。
「たしかに、そのとおりだね、ひかるおばさん…。でも、きみがはなしてくれたすべてのはなし、そしてみせてくれたすべてのしゃしん…!どんなせいとでも、あんなせいとかつどうをおくりたいとおもうはずだよ!」
「みのる…」
「だからこそ、ぼくは…!」
「みのる!?」
そのときのけっしんが、わたしをきゅうにたちあがらせ、みぎてをむねにあてて、これからはなすことばをさらにかたくちかいさせました。そのことばは、わたしのこころのそこからわきあがってきたものでした。
「ぼくは、じぶんのがくせいせいかつをかえてみせるよ!べつのくにのがっこうにいくんじゃなくて…ここ、にほんで!だから、こんどはぼくが、きみのためにともだちとのしゃしんをみせるんだ!」
わたしのことばに、おばさんはきょうがくしてかたずをのみました。しばらくふたりのあいだにしずかさがただよったあと、かのじょはわたしにいいました。
「それが、あなたのやりたいことなら、わたしはおうえんするわ。」
そのことばをきかせてくれたとき、ひかるおばさんのえがおは、なぜかむりやりつくったようにみえました。
そのえがおは、いまでもわたしのあたまからはなれません。
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げんざいは2がつ15にち、げつようび。あのひかるおばさんとのかいわから、ほぼさんねんがたちました。わたしは、クラスにしゅっせきするためにAPAをつかうのをやめることをけっしんしたのです。つまり、わたしはこのさんねんかん、がくせいせいかつをかえようとずっとどりょくしてきたということですが、いまだにおぼえるにあたいするおもいでがひとつもできていません。
「いまは、おばさんがだいがくにかよっていたころ、どうやっておなじことをしようとくふうしていたのかが、よくわかるよ…」
がっこうのしゅうりょうまで、あとひとつきとすこし、3がつのさいごまでしかのこっていません。これがさいごからにばんめのねんで、らいねんにはもうぼくのこうこうせいかつさいごのとしになります。そうなると、どのだいがくにすすむかをきめなければいけません。このじてんで、もうなんかげつもまえにあきらめていてもおかしくないはずです。だけど、どうしておばさんのはなしてくれたすべてのはなしや、みせてくれたしゃしんのことが、わたしのあたまからはなれないのでしょうか?おもいだすたびに、こころのなかでまたさけんでしまいます。
「ぼくも、こんなせいとかつどうをおくりたい!」
どうやってかはわからなかったけれど、なんとかして、このいまのじょうたいをかえてみせなければいけません。
あきらめるなんて、ゆるされないんです。