なぜまだ挑み続けているのか ?「パート1」
わたしとたまきさんはペアでのかだいをおわらせ、ちょうどにじゅっぷんまえにていしゅつしました。せんせいがわたしたちのていしゅつぶつがかのじょのメールにとどいたことをかくにんしてくれたあと、たまきさんはさよならもいわずにAPAからログアウトしました。いま、わたしはきょうしつにすわり、さいしょのきゅうけいじかんがおわるのをまっていました。いつものように、がっこうぜんたいがそのとくゆうのしずけさにつつまれていました。
みぎてにあごをのせながら、わたしはすぐとなりのまどにうつったじぶんのすがたをみていました。そのとき、このがっこうのせいとたちにしりぞけられたすべてのきおくがよみがえってきました。なぜまだやりつづけているのか、その「りゆう」をかんがえはじめていました。たまきさんのすべてのことばが、わたしのしていることすべてにたいしてうたがいをいだかせるようになっていました。
すべてをふまえて、わたしはもうほぼにねんかん、がっこうのすべてのひとのかんがえかたをかえようとしてきたが、いっさいよいけっかがない。
わたしをふくめずにきょうしつにいるせいとはじゅうきゅうにん、そのなかでわたしにいまでもはなしかけてくれるのはたったのはちにんだけ、たまきさんもふくまれていて、ただし、かのじょはクラスのだいひょうだからだ。わたしにかたることがあるのはそのだいひょうだけで、ほかのともだちはわたしがはなしかけるたびにむししている。かれらがわたしにかたることをきょうゆうされるのは、あのふしぎなペアわざをするときだけだ。
もしせんせいについてなにかいうとしたら、ちょっとへんにきこえるかもしれないが、せんせいと会話をするのは、どうしてもがっこうのせいとたちと話すよりもむずかしい。なぜなら、じゅぎょうのじかんのあいだ、せんせいのAPA だけがぜんぜんうごかず、そのまえにたって、きょうかをせつめいし、あとで学校のイントラネットのチャットをつかってしつもんにこたえるからだ。さいごには、これがにほんのすべてのがっこうでのきょういくのかたちだ。
くちびるをぎゅっととじながら、わたしはじぶんにきいていました。どうしてまだやりつづけているのか?どうしてまだじぶんをいためつけつづけているのか?わたしがしていることからなにかをえることができるのだろうか?わたしがうまくいっていることは、ただひたすらじぶんのがくせいとしてのじんせいをもっとみじめにしているだけでした。
でも、このじかんのあいだにおこったしっぱいにもかかわらず、わたしがつづけているりゆうはなんなのか?
めをとじると、すこしずつそのひのきおくがわたしのあたまにうかんできました。それは、ほかのだれかのがくせいとしてのじんせいのえいがで、ちがうくに、ちがうがっこう、そしてここにいるせいとやせんせいとはまったくちがうせんせいやせいとたちがうつしだされていました。
そのひは、わたしがAPAをいっさいつかわないとけっしんしたひだったことをおぼえています。