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久しぶりの生演奏に、本条はすっかり聞き入っていた。
最初の曲目はウェーバーの歌劇《魔弾の射手》序曲だった。3階まである客席に2500人を収容する大ホールは満席だった。ドイツから来日した高名な外人指揮者がタクトを振っている。本条は2階のほぼ中央最前列に座っていた。
小休止の後、ブラームスの《交響曲第3番》が演奏された。しばし眼を閉じて耳を澄ませていた本条は突如、チェロのまろやかな音色に身体を上げて舞台に視線を向けた。
ある女性奏者が身体をしならせるようにしてチェロを奏でている。肩まで流した黒髪が一筋、ふっくらした頬にかかっている。たおやかな指先で弓を引き、棹で絃を優しく抑えると、澄み切った旋律がホールを満たした。
1か月ほど前、伍代のローマ赴任の送別会があった夜のことだった。横須賀へ帰る時になって、山手線が人身事故で運行停止になっていた。運行再開のメドがたたない混雑した上野駅のホームで、伍代と本条も立ち往生していた。
本条たちのすぐ横で、若い女性が駅員に乗り継ぎの相談をしていた。大きな楽器のケースを置き、腕時計を見ながらかなり困っている様子だった。そんな様子を見かねたのか、伍代は女性に声をかけていた。
『お困りのようですが、我々もタクシーで帰ろうかと思ってた矢先です。駅前のタクシー乗り場は長蛇の列でしょうから、別の通りまで出るつもりですが、よろしければもう1台拾うお手伝いをしますよ。女性ひとりでは止まってくれないでしょうから。な、本条』
本条はきょとんとした。伍代は女性を促した。
『では、行きましょうか』
本条には『ほらケースを持ってやりなさい』と言うのを忘れなかった。
大通りで待った後、駅前に入ろうとしたタクシーを伍代が強引に掴まえた。タクシーに乗る際、女性は深々と頭を下げた。
『助かりました。私、帝都フィルのチェロ奏者をしています。もしよろしければ、お礼にチケットを送らせていただきます』
『それで、楽器をね』
伍代は相手が差し出した手帳に自宅のアドレスを記した。1週間後、今夜のチケットが入った封筒が伍代の家に届いた。伍代は『音楽は趣味じゃない』と本条に譲った。封筒に書かれた送り主の名前は、花菱葵だった。
最後の曲が終わった刹那、万雷の拍手が四方から沸き起こった。いったん舞台の袖に消えた指揮者が再び満面に笑みを浮かべて現れた。
本条はそっと席を立った。楽屋に向かう途中で警備員に止められたが、駅の近くにあった花屋で買った薔薇の花束を示して通してもらい、楽屋口にたどり着いた。花束は今日のチケットのお礼として手渡すためだった。
カーテンコールの拍手がようやく鳴り止む。燕尾服姿の指揮者を先頭に演奏者たちが次々と戻ってきた。額に汗を滲ませた奏者たちは成功を喜び合っている。
花菱葵もそれに続いて現れた。白いブラウスに黒いロングスカートの装いながら、2階席で眺めていた時よりも美しかった。気圧されながらも、本条は勇気を出して歩み寄った。
「花菱さん。私、横須賀の伍代宛てにチケットを送って下さった折、一緒にと書き添えていただいた本条です。今日はご招待にあずかり、有難うございました。ささやかですが、伍代と2人のお礼の気持ちです」
上ずった声で我ながらきまり悪かったが、手にしていた薔薇の花束を差し出した。
「まあ、来て下さったんですね。お花までいただいて」
花菱葵はまだ、ほんのりと上気した紅い頬を薔薇に寄せた。
「いい香り、嬉しいです。伍代さんは?」
「それが急な仕事でうかがえず・・・くれぐれもよろしくとの伝言を預かってきました」
「こちらこそ、その節は本当に助かりました。おかげさまでチェロの恩師の最期に、間に合いました」
頬にかかった黒髪を耳にかけ、改まった口調で礼を言った。
「お忙しそうなので、これで失礼します。演奏会はまた、聴きに参ります」
そうは言ったものの、妙に切ない気持ちがせり上がってきた。しかし、演奏が終わったばかりの楽屋に長居するわけにもいかない。
「この人が青柳先生の病院へ連れて行ってくれた人かい?」
オーボエを手にした銀髪の楽団員が横から声をかけた。
「はい、今もお礼を申し上げたところです」
「じゃあ、お茶でも付き合ってあげたら?打ち上げは、どうせ遅くなるさ」
銀髪のオーボエ奏者は本条の緊張と高揚した表情に内心を察したのか、茶目っ気たっぷりに片眼をつむってみせた。
「いずれにしても着替えてきますので・・・ロビーのラウンジでお待ちくださいますか」
「も、もちろんです。ごゆっくり」
予想もしなかった展開に、本条は天にも昇る気持ちで、楽屋を出た。