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迎撃海域  作者: 伊藤 薫
第2部:蠢動
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[2]

 1か月ぶりに勤務が明け、本条は横須賀市上町のアパートまで歩いて帰った。基地から徒歩で20分はかかる距離だが、本条はどんなに疲れていようが、必ず歩いて帰ることにしている。途中に上り坂があり、狭い潜水艦の中の生活で鈍った足腰を鍛えるにはちょうどいいと思っていたこともあるが、一番の理由は身体の臭いだった。

 自分たちでは気づかないが、長期間、潜水艦に乗っていた乗組員たちからはディーゼル油と艦内の生活臭がまざった臭いがするらしい。「ひりゅう」の同僚でも、電車やバスで隣り合わせになった客たちが席から離れていく経験をしたそうだ。それで、本条はバスもタクシーも使わず下宿先まで歩いて帰る。

 本条の部屋は2階にある。8畳ほどのワンルームの窓を開ける。海から風が吹き込み、澱んでいた空気が入れ替わる。

 Tシャツにジャージのパンツに着替えた後、まず大きなバッグに入れて持ち帰った勤務中の汚れ物を洗濯機に放り込んだ。作業服上下3組、つなぎ2着、肌着と靴下それぞれ12、3枚など。1回の洗濯では終わらない量である。

 部屋は比較的、整頓されている。1年のうち半分以上、住まいを留守にする潜水艦乗りたちは別の艦に勤務している者同士、部屋の用心や郵便物の整理、家賃の節約などを理由に共同で住む場合が多い。本条も以前は気の合う同期と部屋を借りていたが、同期が呉に異動になって引っ越して以来、独身で暮らすようになった。

 早く結婚したい気持ちはある。今の給与でも家庭を持っても十分やっていける収入だと思うが、長い航海から疲れて帰った後しばらくは独りで好きに過ごしたいというのも本音だった。

 質素な部屋には、やや不似合いな高価なステレオがある。電源を入れる。いきなり早口のアメリカ英語のトーク番組が流れてきた。ラジオはいつもAFN(米軍放送網)に合わせている。AFNは海外に駐在する米軍人向けの放送である。リスナーからのリクエストに応じて50年代の名曲から最新のヒット曲まで幅広く流す。また、大統領の重要な演説や為替レート、気象予報、部隊の動向なども随時、放送される。

 横須賀の第2潜水隊群は米軍基地内に位置している関係上、米海軍との関係は緊密である。また海上自衛隊は米海軍と共同して行動することを前提としているため、英語になるべく親しむように心がけている。英会話教室に1年近く通った甲斐もあり、日常会話ならこなせるようになっていた。

 冷たい缶ビールを飲みながら、スピーカーから流れるビリー・ジョエルの歌に合わせて口ずさんだ。溜まった郵便物を整理する。その中に馴染みの名前が書かれている封筒があった。3期先輩の伍代征弥からだった。

 本条が横須賀市の走水にある防衛大学校に着任したのは、今から9年前の4月だった。キャンパスは東京湾を望む高台の上で、広大な敷地の東端に校舎があった。

 着任したその日の夜、先輩たちがサイダーやおつまみを用意して「部屋会」を開いてくれた。部屋長である4年生の伍代から要員志望を聞かれた。最初に、本条と一緒に配属された同期が口を開いた。

「真田健吾と申します。出身は徳島です。夢はパイロットです」

「本条、お前の夢は?」

「海上要員です。出来れば、潜水艦乗りに・・・」

 あまり深い考えではなかったため、本条は言葉少なに答えた。自衛隊のことを調べるうちに、潜水艦に興味を持った。余分なものを削ぎ落とした船体。誰にも気づかれずに深い海へと潜り、孤独な戦いを展開する。不思議な形状と行動に魅せられた。

「そうか。実は、俺も潜水艦志望なんだ」

 伍代はにわかに優しい笑みを浮かべた。

 本条が実習幹部として「ひりゅう」に乗った時、水雷長だった伍代はドルフィン・マークを付けられるよう心身ともに厳しく鍛えてくれた。現在は別の艦の船務長だが、互いに非番の時はよく飲みに連れて行ってくれたり、早く身を固めろと心配してくれたりと、本条にとっては今でも頼りにできる兄貴分だった。

 封筒に入っていたのは、コンサートのチケットと便箋がそれぞれ1枚ずつ。便箋には赴任の挨拶と、もし暇があれば引っ越しの手伝いをしてほしい云々が書かれていた。

 本条は伍代の官舎に電話をかけ、明日お伺いしますと答えた。

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