日本国は手を抜けない(9)
第二次世界大戦の終結後、フランスは政治的にも経済的にも軍事的にも混乱していた。
何しろ一時は全土がナチス・ドイツの占領下にあり、解放後は本国の復興の為、金を搾り取って本国に注ぎ込む為に植民地に苛政を敷いて、従わない植民地は軍事力で弾圧。その為に軍事費は膨れ上がり復興費用を圧迫し、復興費用を捻出する為、植民地を更に搾り取る……という悪循環が続いていた。
旧連合国である米英の「助言」に耳を貸さず、寧ろ植民地経営に水を差す存在として却って敵視する有様だったのだから、始末に負えない。
挙げ句の果てには米英への反発心から、米英から見捨てられた形となったイスラエルに接近し、スエズ運河をイスラエルの占領下に置いて米英の世界戦略を扼する様な真似を計画し、実行に移したのだから、最早害悪だったと言っても過言では無かった。
ここでイスラエルに話の焦点を移すと、イスラエルは昭和二十三年(西暦一九四八年)、エルサレム一帯で蜂起(第一次中東戦争)したユダヤ人によって建国宣言が成された、民族主義国家である。その成立は非常に血生臭く、発足したばかりの国際連合から調停のため派遣されていた外交官のスウェーデン王子が、民族主義者によって射殺されるという悲劇が発生する程に血生臭かった。
この事件によりイスラエルは君主制国家が多く残る西側欧州諸国の反感を買っただけでなく、米国の肝煎りで発足された国際連合の面目を潰したことで米国の反感をも買った。米国中枢への激しいロビー活動は却って危険視され、その事が却ってユダヤ人の反発を生むという悪循環に陥っていた。
昭和三十一年(西暦一九五六年)十月、イスラエルがシナイ半島へ侵攻したことで、第二次中東戦争が勃発した。フランスは調停者の顔をしてエジプト軍のスエズからの撤退を要求。要求を拒否したエジプトに対しフランスは空母と戦艦から成る機動部隊を派遣して空爆と艦砲射撃を行い、エジプトはスエズ運河に艦船を自沈させ徹底抗戦する構えを見せた。
そして開かれた国際連合安全保障理事会で、ソ連がイスラエルとフランスの肩を持って擁護し、米英と対立したことから、イスラエルとフランスとソ連が結託して事に及んだことが明らかになった。
当然、この行いは米国の国是となったGPAを脅かす安全保障上の脅威であり、米国民を上から下まで大激怒させた。
然し乍ら、ソ連は核兵器がイスラエルとフランスの手に渡ったことを示唆。極東戦争の二の舞となる恐れから、米英は手出しが出来なくなり、国連安保理も国連総会も機能不全となり、事態は核戦争の秒読みが始められる程に切迫したものとなった。
が、この状況を座視せず、名乗りを上げた国があった。
国際連合非加盟国であり、国際連合の制約を受けない国。
日本国である。
当時、日本国はソ連から国際連合への加盟を反対されており、国際連合への加盟は政治的にも、国威を内外に対して保つ上でも重要な課題だった。
然し乍ら、平和を保つべく設立された国際連合が機能不全に陥り、理不尽な侵略に曝されているエジプト王国に救いの手を差し伸べられない有様を見て、国民世論は俄かに沸騰した。
曰く、「鬼畜仏ソ、何するものぞ」、「目にもの見せてくれる」。
前年に供与されたばかりの元エセックス級空母「タイコンデロガ」改め「ふよう」を中心に、戦艦「やまと」を戦列に加えた日本国海上自衛隊の空母機動部隊は、一躍紅海に乗り込みフランスの機動部隊やイスラエルの戦闘機部隊と死闘を演じて見せた。核武装を仄めかす三国相手に一歩も退かず立ち向かうその姿は、かつて独善からアジア太平洋各地を侵略したことへの禊でもあったが、新生日本国が国際的不正義に立ち向かう所存であることを、これ以上なく国際世論に印象付けた。
年が明けて昭和三十二年(西暦一九五七年)一月、海上自衛隊の機動部隊との制空権獲得競争に敗北し、スエズ運河周辺やシナイ半島各地に空襲を受け、地上戦ではエジプト軍に盛り返され、更に国際世論の後押しを受ける形で、本格的な派兵に踏み切った米英の空母機動部隊に本国を海上封鎖されたイスラエルとフランスは撤退を表明。エジプト軍も漸く機能回復した国連が派遣した国際連合平和維持軍に、シナイ半島とスエズ運河の治安維持を委ねて撤退。第二次中東戦争は終結した。
この戦争により日本国はその献身を認められ、満洲国と同時に国際連合への加盟を果たした一方、イスラエルとフランスの国威は失墜。ソ連もその侵略的な姿勢を危険視される結果に終わった。
これが、新たな戦乱をアジアに齎す事になる。