日本国は手を抜けない(8)
GPAの締結によって、発案者のアメリカは勿論最大の受益者であったが、では二番目の受益者は何処の国だったかというと、それはイギリス連合王国であったと言えるだろう。
第二次世界大戦後、大日本帝國に占領されていたイギリス連合王国の植民地は、日本軍の復員と米国との共同進駐により、英連邦の中の国々として英国の手に戻ってきていた。然し乍ら、二度の世界大戦を戦い抜いて莫大な債務を積み上げた英国に、最早往年の様な植民地支配を行う様な軍事力・経済力は無く、かと言って元植民地・現英連邦構成国の側にも、英連邦の枠組みから独立し、自立してやっていくだけの力は無かった。
何しろ容赦ない国家総力戦により、各地の社会基盤は(日本軍の)軍需向けに作り直されるか、或いは激しい戦闘により破壊し尽くされ、進駐軍のばら撒く金と食糧の配給、そして物流網の再生無しには人々の生活が成り立たなかった。
心情的にはどちらかと言えば、横暴な所もありつつも支配者から解放する者の側であった大日本帝國に添いたかったが、大日本帝國は戦争に負けて崩壊し分裂――正確には、満州国に逃亡した日本軍将兵らは客将であって、主権は飽く迄も満州国皇帝にあったが、実態としては軍国主義日本という理解で問題なかった――し、ぶち上げるだけぶち上げた大東亜共栄圏の後始末をつけられる状態になく、他国の植民地(仏印、蘭印)も逸早く進駐した米軍の手によって穏便(当社比)に旧宗主国の手に戻され、大日本帝國に与して独立運動に身を投じた人々はテロリストとして討伐されていたから、独立運動の機運は燃え上がらないまでもチロチロと燻りつつも、現実問題として宗主国を叩き出すだけの能力が植民地には無かったのである。
その風向きが変わったのは、第一次中東戦争に於いてスウェーデンの王子が殺害され、ユダヤ人に愛想を尽かした欧米諸国が中東から手を引き、更に極東戦争が起きて米ソが中国大陸から這々の体で撤退した後のことである。
「地球儀を俯瞰する外交」を掲げるアイゼンハワー政権は、米国を中心として地球を東西にグルっと一周するアーシアン・リングを形成し、これを以てソ連率いる東側諸国の勢力拡大・浸透を防ぐ構想をぶち上げた。
このアーシアン・リングの地球の反対側の要となる極東から東南アジア、インドを経て中東に至る地域が政治的・経済的に不安定であることは当然、米国からすれば許容出来ない問題だった。
従ってナチス・ドイツからの解放に掛かった諸費用(レンドリース)の、より低い利率の債務への借り換えと引き換えに、米国は植民地自治政府を立ち上げる様に指導。現地の各種利権は旧宗主国(の企業)に渡しつつ、植民地の殖産興業に励みながら――何しろ二度の大戦を終えてダブついた旧式生産設備は嫌になる程米国にあり、かと言ってそれら生産設備で製造可能な工業製品は、欧米諸国で生産すると高コストになってしまうので――、自治政府を宗主国に代わって米国が後援することで、漸く各地の植民地の、西暦一九七〇年代から八〇年代に掛けての政治的・経済的自立の目処が立った。
この流れに乗じた英国は、ノリノリで戦後ダブついていた各種旧式兵器や各種製造設備を自治政府に廉価で売却したり、ムスリムとヒンドゥー教徒が入り混じる英領インドを分離独立させたりして「損切り」を図り、見事に泳ぎ切って英国経済の息を吹き返した。特に政治的寝技を使って、これら旧植民地の基軸通貨を「ドル」ではなく「ポンド」で統一したことは、後の世界経済に於いて大きな意味を持つことになるのだが、まだこの時はそこまで予測してのことでは無かった。
スエズ運河はエジプト王国政府へと米国を介して穏便に譲渡され、アスワン・ハイ・ダムの建設資金を世界銀行は快く拠出し、エジプトはアラブ世界の盟主としての道を歩み始めた。
これと対照的な末路を辿った国も、勿論ある。
植民地経営に拘泥したフランスと、独立達成後にその過激な民族主義とロビー活動を却って嫌厭されたイスラエルである。