日本国は手を抜けない(6)
極東戦争が誰にも利益なく終結した後、東シナ海・南シナ海の航路は、著しく治安が悪化した。
一時的に無政府状態に陥った南北中華から逃げ出した難民、いわゆるボートピープルに対し、両シナ海に接する国々は一貫して受け入れを拒否した。
余りにも膨大な数の難民、それも特別国家に利益を齎す様な秀でた何かを持たない人々を無制限に受け入れては、国の屋台骨が傾ぐことは間違いなかったからである。
従って当然の帰結として、それらボートピープルは領海に侵入するなり、各国海軍や沿岸警備隊の類に警告射撃を受け、引き返さなければ漏れなく射殺・撃沈される運命にあり、生き残るためには武器を手に取り、両シナ海に無数に点在する無人島の何れかを占領し拠点と成して、海賊に身を窶して近くを通りがかった船を襲い、物資を得て日々の糧とする生活を送る外なかった。
全盛期のカリブ海も斯くやと言わんばかりに激増した海賊被害は、一つ一つ海賊を討伐(根切りに)しても、その後釜を何処かから流れ着いた新たな難民が襲ってはリスポーンし減るどころか増える有様であり、中東から水よりも安く無尽蔵に採掘される石油を、経済的な最短航路である両シナ海を通して輸送するには、スケジュールを合わせて船団を組み、その外周を本格的かつ有力な海軍部隊で護衛することが必要だった。
そしてその様な航路護衛を要するということは、必然的に両シナ海を通る船舶の輸送コストをアホほど上昇させる。それのみならず、航路護衛部隊から逸れた船は質に取られ、或いは乗り込んでいた人々が殺戮されるようなことも度々起き、周辺諸国の社会を激昂させた。
斯様な事態に対し、日本国は昭和二十八年(西暦一九五三年)七月二〇日、台湾、フィリピンなどと諮って「中間線」を制定。そしてその線を境として東側にあった海賊や海賊の拠点を、翌月から半月掛けて協働して根絶やしにした。
手段は、核戦争を起こす様なアホが出てくるほど作った挙句、相互確証破壊を実証して無用の長物となって大幅に削減された米国戦略爆撃機部隊から供出・供与された、米国製核爆弾であった。
前月、日本国は台湾、フィリピンなどと共に、前年に米国が提唱した汎地球的パートナーシップ協定(Global Partnership Agreement)に参画し、同協定に定められる「相互的な防衛力の提供」に基づき、米国の許認可の下で米国製核兵器を運用する「ニューク・シェアリング」を開始した。中間線以東の海賊を核兵器でこの世から永遠に消滅させたのは、そのニューク・シェアリングに於ける相互運用能力を獲得したことの、実戦証明任務の一環だった。
極東戦争で奪ったかもしれない大量破壊兵器を持っている可能性があっても、それの効果的な運搬手段を持たない、何処の国にも所属しない、海賊という集団に対してであれば、相互確証破壊は起きないし、そもそも「「核実験場」に不法侵入している不法集団」なのだから、吹き飛ばすにしても遠慮は要らない。という、誰が考案したのかは現代に至るも定かでない理屈によって、中間線から東の海域から海賊は一掃された。
日本国、台湾、フィリピン、そして核兵器を供与した米国のこれ以上ない凶悪な脅迫により、拠点となるべき島も無くなり、侵入すれば核兵器で跡形も無く消し飛ばされるかもしれない中間線より東側に、これ以降海賊船が侵入することは激減した。時々「おイタ」をする馬鹿は居なくもなかったが、日本国、台湾、フィリピンなどは、積極的に空母機動部隊を常時遊弋させたり、軽武装(※それでも第二次世界大戦末期の米軍の戦闘爆撃機程度の搭載量がある)の襲撃機を、哨戒機として飛ばしたりし、SOS信号が発されれば直様駆け付けられる体制を整えた。
これ以降、中間線以西は海賊同士で衝突する蠱毒となり、そこに時たま実戦の経験値稼ぎに各国の正規軍などが出没して海賊を追いかけ回すという無法地帯となり、一方で中間線以東は安全かつ経済的な航路として、一定の安定を見ることになる。