日本国は手を抜けない(5)
極東戦争がドロー(と言うよりは、東西双方にとってより悪くなる形)で終了したことは、戦後の責任追及の場に於いて、米陸空軍を決定的に風下に追いやる結果となった。
そもそもは大陸戦線に於いて、米陸軍が度々の渡河に失敗し、米空軍に核攻撃の実施を依頼したこと――そして米空軍自身が杜撰な防空網を突破されてNBC兵器の投下を許したこと――がこうした破滅的な結果を齎したのだから、無理も無い話だった。
戦後、米陸軍は「お取り潰し」と揶揄される程に規模を縮小(実質的には在中米軍を全て解体し予備役へ追いやったに過ぎないが)し嫌になる程大量の火砲を集中するソ連型砲兵または戦車部隊の集団へ、そして米空軍は純然たる防空軍へと変質を遂げた。
破滅的な惨禍だけを齎し、何ら防衛に寄与しなかった膨大な戦略爆撃機部隊はその規模を大きく減じ、代わってより遠距離から、より高速に目標へと到達し迎撃が困難な、ロケット――弾道弾の整備へと米国は狂奔することになる。
代わって、戦略目標である「同盟国の守備」に徹し大きな失点の無かった米海軍は、予算的・政治的に有利となり、この結果、
「東側と接するフロントラインを第一防衛ラインとし、第二防衛ライン、第三防衛ラインを大西洋・太平洋の両洋に引き、米国本土から遠方の洋上に於いて空母機動部隊により接近する敵(爆撃機)部隊を漸減し、本土到達までに撃滅ないしは間引く」
という、どこかで聞いたことのある様な漸減作戦が米国防衛基本戦略の骨子となる事態が発生した。
この基本戦略に於いて、米国自身の防衛負担を軽減する為、第一防衛ライン、第二防衛ラインとなる同盟国の国力を涵養し、(米国が勘定する)所要の軍事力整備に資する様に明に暗に各種援助を行うことが決定され、為に来る時代に於いて必要な性能を満たさない艦は廃艦とし、俗に言う「スーパーキャリアー」「メガキャリアー」と呼ばれる超大型航空母艦のみで空母機動部隊を編成するものとする指針が定められた。
この文脈に於いて、太平洋に於ける第一防衛ラインとは「アラスカ〜千島〜日本列島〜台湾〜フィリピン〜シンガポール」となり、分けても極東地域随一の工業国(当社比)で復興景気に沸いている日本国に対し、米国の潤沢な資金と余剰艦が譲渡されることとなった。
この資金を元手に、日本国は壊滅した九州一帯の産業基盤を再生。更に第二次世界大戦中に進んだ東京一極集中が仇となって全国的暴動の鎮圧に手間取った反省から、「日本列島改造計画」と称した国家機能の分散配置を推進し、また一連の投資により余剰した旧式製造設備を、殆ど捨て値で台湾やフィリピンに輸出し、米国の基本防衛戦略に合致する様に同盟国同士での国力涵養に務めた。
また日本国の肝心の軍備であるが、その基本戦略は戦後直ぐは「航空自衛隊が確保した制空圏の下を」「海上自衛隊の水上打撃部隊が」「上陸地点に陸上自衛隊が釘付けにした敵部隊を」「艦砲射撃で吹き飛ばす」というものだった。
しかし米国の政策転換により、(戦時中にアホほど作った)エセックス級航空母艦を供与された事により、戦術により幅が利かせられる様になると同時に、シンガポール以北のシーレーン防衛を担任させられる事にもなった為、以前よりも日本国の防衛負担は増していた。
それでも破滅的な惨禍を齎した戦争から、前を向いて歩み始められたのは、勅命講和という形で停戦を結んだ満洲国こと大陸日本が、昭和天皇の、
「私は私の意思で此処に停戦を命ず。
其方らが私のことを思って戦を始めたことに理解はするが、それは世界平和を望む私の意思に反する。
今後日本国に対し戦を挑むのであれば、以後は諸君らを逆賊として私自ら剣を取って戦う所存である」
という御言葉を受け、
「我々臣下一同は陛下の為を思って決起いたしましたが、それが陛下のご意思に反しておりましたこと、陛下と日本国民に対し深くお詫び申し上げます。
これよりは満洲国の者として満洲国に忠誠を誓い、決して陛下と日本国民に刃を向けること無き様に努めて参ります」
と頭を下げて誓い、以後対馬海峡の停戦ラインから更に下がった地点から先に進むことなく、また決して暴力的・敵対的に武力を用いることがなかったからである。
日満関係はその後も数十年の間、外交上必要な最低限を除いて皆無になるなど、極東戦争は両者の間に痼を残す結果となった。
その蟠りが解けるのは、冷戦崩壊後の事になる。