日本国は手を抜けない(24)
西暦二〇〇三年二月十一日を以て、満洲国は日本国に「合流」。両国の国家統合への機運を高めた、「玲瓏和合(合一し光輝く国になろう)」という世間一般に流行した造語から、新国家は「大玲和国」と号された。
直接的な原因は、世界同時多発テロにより殆どの満洲国帝室成員が死亡し、偶々日本国皇室に嫁いでいて難を逃れた女系子孫の皇女殿下以外に、直系の成員が生き残らなかった事に求めることが出来る。
帝室という精神的支柱を喪失った満洲国は、新たな精神的支柱を日本国皇室に嫁いでいた皇女殿下に。引いては日本国に対し求めた。
そして偶々、本当に偶々、未曾有の国難に曝される中で両国皇室の間に新たに芽吹いた生命に、両国民は新たな世界への希望を見出した。
即ち、日満両国の国家統合である。
元来、帰化した日本人により伝えられた日本文化の浸透著しかった満洲国では、冷戦崩壊後、日本国の巨大資本の流入と共に「日本化」とも言われる様な、高度な独自の伝統文化を維持しつつも、やや曖昧な日本国皇室への尊崇の念を抱いて精神的に同化していく傾向があった。
「経済的苦境を助けに来てくれた精神的祖国」という認識は、比較的収入の低い満洲国の一般国民に於いて、より顕著であり、しかも政府自身が日本国からの投資をより喚起し容易にすべく、日本語教育や日本の歴史教育に熱心だったことから、年々ますますその傾向は強まっていた。
世界同時多発テロによって事実上、満洲国帝室が消失すると、満洲国民の間では日に日に皇帝不在という精神的不安から、精神の安寧を残る唯一の直系子孫が嫁いだ日本国皇室に求める向きが、俄然として強くなった。
他方、日本国の側であるが、こちらはこちらで世界同時多発テロによって発生した金融危機と、第五次中東戦争の後始末で手一杯であり、満洲国の事情を把握するのが一週遅れていた。
この状況下での一週間の遅れというのはある種致命的であり、気が付いた時には満洲国全土で日本国との国家統合を訴える平和的デモ行進が始まっていて、最早「前向きに検討します」としか言い出せる状態でなかった。言を翻せば最後、満洲国発の反日デモ・第二の金融危機が勃発しかねず、事態収拾の為には現状の追認以外に手が残されていないという、何処かで聞いたことのある様な情勢に陥っていた。
事態は遂に皇室会議へと持ち込まれ、時の内閣総理大臣、倉院・重が上奏した日満両国の国家統合案について、今上天皇の意向も含めた全会一致による可決を以て、事実上決定された。
翌日には両国国会の同意決議が行われ、日満両国が合流条約を交わして批准し、両国は異例の速さで国家統合を果たした。
新帝都は朝鮮半島の京城に置かれ、副首都として東京と新京が選ばれた。
日本列島改造計画が完遂され、日本国の政府機能が高度なネットワーク化、分散配置を志向していなければ。
或いはアジア圏の通貨統合が先に行われていなければ。
これほど迅速に両国の政府組織を統合することはできなかっただろう。
新たな世紀を満洲国との国家統合という波乱で迎えた日本国だったが、だからと言って生きるのが楽になったかと言えば、そんなことはない。
世界同時多発テロで破壊された世界経済の再生に世界第二の経済大国として全力を傾けなくてはならなかったし、依然として南北両中国大陸とは仲が悪く、旧満洲国地域で接する長大な陸上の国境線の警備には常に頭を悩ませていた。両シナ海の海賊は討っても討ってもリスポーンするし、無条件降伏させた中東地域は「二度と手向かう気が起きない様に」厳しく国連管轄下の国際自由地域として管理しなければならないし、そもそも世界同時多発テロが起きた原因は、諜報組織の対テロ能力が弛緩し国家自体に危機感が不足していた事にあるのだから、国、引いては世界全体を引き締め、全世界的な対テロネットワークの構築が必要だった。
二十一世紀も、日本国改め大玲和国は、手を抜けないのであった。
《日本国は手を抜けない 完》




