日本国は手を抜けない(21)
第四次中東戦争(第二次湾岸戦争)の帰趨そのものは、「砂漠の嵐」作戦開始直後から行われた、イランとサウジアラビア、ペルシャ湾の三方向から飛び立った多国籍軍機との一週間に及ぶ制空権獲得競争のイラク軍敗北、続くイラク全土に対する防空システム制圧、対弾道ミサイル迎撃・撃滅戦、空母「ミッドウェイ」に対する乾坤一擲を期した弾道・対艦ミサイル飽和攻撃による防空戦と同艦の大破炎上、それに対する多国籍軍の戦艦七隻(日本国「やまと」、米国「アイオワ」「ミズーリ」「ニュージャージー」「ウィスコンシン」、英国「ヴァンガード」、仏国「ジャン・バール」)による報復の破滅的な艦砲射撃、そして多国籍軍の地上戦・上陸戦の開始など、イラクはソ連や他の同調した東側諸国からの軍事的援助を活用し果敢に多国籍軍に挑みかかったものの、第三次中東戦争の様な往年の力は東側諸国には既に無く、対して第三次中東戦争末期から戦後に掛けて、戦訓を反映した最新鋭装備への転換が進んでいた多国籍軍が、「基本的には」終始圧倒した。
西暦一九九一年二月二十七日にはクウェート市が解放され、同年三月一日には「根本的なクウェート存立の危機を除く為」イラク領内への多国籍軍侵攻が開始。イラク軍の中核戦力である共和国防衛隊は、陸海空からの三位一体となった攻撃によって丁寧に擦り潰され、四月一日にはバグダッド直前のカルバラーにまで多国籍軍は迫った。
ファルージャに展開していたイスラエル軍による、バグダッド南部郊外七ヶ所に対しての威嚇的核攻撃が無ければ、バグダッドの地下深くの防空壕に立て篭もるフッセイーンは、そのままバグダッドを制圧した多国籍軍に逮捕され、国際刑事裁判所に於いて裁かれる運命にあっただろう。
しかし第四次中東戦争はイスラエルの核攻撃によって、急転直下、幕切れを迎える事になる。多国籍軍とイラク軍はバグダッド前面で互いに核攻撃を恐れての睨み合いに移行し、そのままイラクは北緯三十三度線と呼ばれる停戦ラインを境に南北に分割状態となり、南イラクは西側諸国の主導で構築された、クウェートへの莫大な負債の返済とクウェート・イラク復興スキームに乗って多国籍軍監視の下に分離独立させられる事になった。
またイスラエルによる他国領内での核兵器の威嚇使用は、世界中から批難が浴びせ掛けられ、逆に賛意を示した教条的な東側諸国には、更なる世界的な孤立が招来された。
中でもソ連の苦境は特筆に値し、ソ連構成国の権限拡大の声に抗しきれなくなったソ連指導部は、各構成国が独立した共和国として共通の大統領の下に外交・軍事政策に於いて連合するという新ソ連邦条約を提案せざるを得なくなり、エストニア、ラトビア、リトアニアといった小さな共和国の完全な独立に向けた動きを促進するものとして、保守派の強い反発を招いた。
翌日に新ソ連邦条約への調印を控えていた同年八月十九日、「国家非常事態委員会」を称するグループがモスクワでの権力奪取を試み、そして三日間の攻防の末、失敗に終わった。ソ連構成国の一つであるロシアの大統領、エリチャンはソ連共産党系の組織であるロシア共産党の活動停止を命じる大統領令に署名を行い、ソ連最高指導者ゴリビーはソ連共産党書記長を辞任し同党の資産を凍結・党中央委員会の自主解散を命じ、事実上その瞬間にソ連共産党は消滅した。
思想的に人々を纏め上げるソ連共産党が存在しない状態では、ソ連を構成する共和国達を一つの主権に統合することは出来ず、中東などに残る教条的な東側諸国の懸命の説得にも拘らず、各共和国は次々に主権宣言を行いソ連から離脱。同年十二月二十五日、構成国がゼロになった事により、ソ連は法的に消滅した。
莫大なソ連時代の債務は、ソ連の大部分を占めたロシアに引き継がれたが、ロシアは巨大な軍備・大量破壊兵器の大幅削減・廃棄と引き換えに西側社会に借り換えを要求。政治的・軍事的な安定性確保の見地から西側社会もそれを受け容れ、莫大な資本と消費財がロシアの大地に流れ込み、窮乏していた社会を一挙に潤した。
ソ連時代に生産された大量破壊兵器が国内に残されていた、ウクライナやカザフスタンなども、ロシアに倣って資金供与と引き換えに大量破壊兵器の全廃を行い、極端な軍事産業と重工業、鉱工業に偏っていた産業の再編を行なった。
そうして、第四次中東戦争に於いてイラク側に立った国々の内、中東諸国のみが生き残った。




