日本国は手を抜けない(20)
東側世界が大きくその規模を縮小した、西暦一九八九年から一九九〇年に掛けて、ソ連社会は断末魔の呻き声を上げていた。
第三次中東戦争の間に承認された、国内総生産の二〇パーセントにも達する軍事費・宇宙開発費を含んだ国家予算、そしてそれ以前に使用された国債の償還を実現すべく、ソ連中央銀行は盛んにルーブルを刷ったが、それはハイパーインフレとなって人々の懐を直撃した。
戦時経済でただでさえ物不足なのに、公設市場に並ぶ品々の値段はアホほど高く、それでいて物価に対する実質的な所得はそれほど向上しない。東側世界の盟主であり、労働者の擁護を謳うソ連自身が、他ならぬ労働者を擁護し、豊かにし、慈しむことが出来なくなっていたことは、ソ連人自身から共産主義・社会主義の、西側の自由主義的な市場経済に対する理論的優越という自信を奪い去り、即ち労働に見合った報酬を与うことの出来ないソ連政府に対する不満へと転化していった。
クレムリンやルビャンカ当局は、そうした動きを直ちに弾圧したが、その動きこそが更なる人々の反駁を拡大再生産する悪循環に陥っており、詰まる所、爆発するのは時間の問題だった。
それにトドメを刺したのが、西暦一九九一年の第四次中東戦争(第二次湾岸戦争)だった。
第三次中東戦争に於いて敗北を喫したイラクは戦後、莫大な戦費の償還を巡って、経済的苦境にあった。
何しろアラブ世界以外の国からの負債に対する返済だけで、毎年の石油収入の約半分に達しており、更に石油危機の反動で増産した周辺諸国によって石油価格は低下し、今後短期的には上昇も見込めないことから、石油収入による返済にも限界があった。
GPAに組み込まれていれば、一国の経済的破綻による連鎖的信用収縮からの世界恐慌を防止すべく、より低利の債務への借り換えをさせてくれたかもしれないが、イラクは東側の、それも教条的な独裁国であり、GPAに参加するには政治体制の変革が必要であり、詰まりその様な手段を執ることは、独裁者サッダーウォ・フッセイーンの政治的な死を意味していて、到底不可能なことであった。
他方で、当時のイラクは第三次中東戦争によって、ペルシャ湾岸随一の軍事国家に成長しており、イラク陸軍だけでも湾岸協力会議の二倍の戦力に達していた。フッセイーンはイラクには弱味が無く、復興に喘ぐ(※当事者目線)イランに代わって、湾岸地域のリーダー=アラブ帝国の盟主として振る舞えると思っていて、借款の返済どころか新たな援助を要求する始末であった。
然るに、隣国の小国クウェート「ごとき」が、斯様なイラクの経済的苦境に拘らず借款の返済を要求してきたことは、自らが経済的に弱体な存在であるという現実認識が出来ない状態のイラクにとって、極めて癪なことであり、フッセイーンを激怒させ、クウェート侵攻を決意させるに十分な出来事だった。
西暦一九九〇年八月二日、イラクはソ連の後押しを受け、クウェートへの侵攻を開始した。侵攻自体は六時間余りで完了し、クウェートはイラクに併合されクウェートが要求していた債務の返済は帳消しになった。侵攻により石油価格の相場は急激に上昇し、石油収入は短期的にプラスとなってイラクは一息吐いた。
吐いたが、しかし「たかが」クウェートの併合程度で、西側諸国が激怒して一週間の間に国際連合に於いて、国連加盟国に対し対イラク制裁決議を義務付け、またイラクによるクウェート併合を無効とする国連安全保障理事会決議が採択され、可決されたことは、イラク・ソ連の思考の埒外であった。
国連加盟国、分けても西側諸国による一致した対イラク経済制裁の発動は、文字通り破滅的な効果をイラクに齎した。石油収入は消失し、UNPPFが「情勢緊迫により」撤退したイランとの国境には、三年ぶりに編成された多国籍軍が集結を始めた。そして宗教的問題からサウジアラビア側が躊躇すると思われていたサウジアラビア国内への多国籍軍展開も、宗教的軋轢が少ない日本国が主力となって展開するという、ウルトラC級の政治的アクロバット飛行により解決されたことで、軍事的に突出した地点に対し二方向の正面を抱えるというイラク側の致命的な「詰み」に発展した。
イラク側にはクウェートからの撤退を実現する為の政治的な素地が無く、然し乍ら外交による事態打開の糸口も無く、ソ連との外交的・軍事的な連帯によって世界を威嚇し、イラク侵攻を頓挫させる他に道はなかったのだが、西側社会は政治的・軍事的・経済的に動揺するソ連は言わずもがな、東側社会そのものが、イラク以外を戦場にする力も意思も無いことを見切っており、年が明けて西暦一九九一年一月十七日の未明から、多国籍軍による攻勢作戦「砂漠の嵐」が発動し、イラクにとっての一大カタストロフィが始まった。




