日本国は手を抜けない(16)
昭和五十四年(西暦一九七九年)に勃発した第三次中東戦争に於いて、イラク・ソ連の連合軍は、イラン周辺海域を通行するタンカーや採掘施設を無警告で無差別に攻撃した。
この為、世界の石油価格は急騰し、また特にペルシャ湾産の石油供給量は急減した。
需給バランスが崩壊し、副次的に、石油から生成される各種化学物質を必要とする製品の価格も暴騰し、その市場供給量も逼迫したため、狂乱物価が発生した。
各国は自国分の石油の確保に躍起になり、大きな外交問題にまで発展した。
これを石油危機と言う。
対イラン全面侵攻という暴挙に対し、既に述べた通り米国のカッター政権は弱腰な態度に終始し、イラク・ソ連ら東側諸国を付け上がらせ、石油価格の暴騰が長期化する原因となったが、逆に意気軒昂に真正面からイラク・ソ連に挑み掛かった国が、二つあった。
一つは、開戦初日のイラン帝都テヘラン上空に、後に「サムライ・ブルー」と呼ばれることになる海洋迷彩のF-4EJ戦闘機を派遣した日本国。
そしてもう一つは、北海に浮かべた空母機動部隊から新鋭機を発進させ、盛んにソ連の防空識別圏に接近させる「演習」を実施する傍らで、もう一つの空母機動部隊に「ロイヤル・ブルー」と呼ばれる紺青塗装のF-4K戦闘機を載せ、スエズ運河を越えてアラビア半島を回り込ませて派遣した、イギリス連合王国である。
両国は第二次世界大戦に於いて干戈を交えた間柄であったが、大戦後はGPAの枠組みを通じて、特に東南アジアの英連邦構成国から南シナ海を通って、アジア有数の金融都市である香港に至る航路の防衛について協力し合ってきた仲であり、また同じ海洋国家で空母機動部隊を運用し、その運用思想や運用機の種類、性能も似通っているという共通点から、近年特に接近が著しい関係であった。
更にイランの近代化と発展に於いて、両国は政財官民の全てに渡ってイランと深い関係を結んでおり、この時もイランの要請に応える形で戦闘機と艦隊の急派を即座に行なっていた。
両国軍は協働してペルシャ湾を通行する船舶の護衛を行い、また襲撃してくるイラク・ソ連他の東側諸国(義勇)軍機を邀撃すると同時に、ソ連からの全面侵攻に晒されているテヘラン上空や各戦線にも、度々戦闘機を派遣した。
当初は時代遅れとなりつつあったF-4が主戦力だったが、エジプトやサウジアラビアからの義勇軍が参戦し、呼応して東側諸国の義勇軍やソ連軍が動員を行い、戦況が膠着し長期化の様相を見せる様になると、互いに競い合う様に最新鋭機(F-14JとF-15RN)の部隊や軍事顧問団、対空ミサイル、火砲を始めとする各種兵器の他、イランが必要とするありとあらゆる支援物資を、持てる力を全て注ぎ込む勢いで石油と交換で提供した。
そうして確保した莫大な石油を、暴騰した相場の半値で石油市場に流して相場そのものを破壊し、冬に次いで電力を必要とする夏が北半球に訪れる前に、石油危機を退治した。
弱腰な米カッター政権は「ソ連を刺激するな」と再三に渡って苦言を呈したが、日英両国は揃って無視を決め込んだ。
決め込んだと言うか、カッター政権の弱腰に愛想を尽かし、本来秘密にされるべき外交上のそうしたやり取りを、よりにもよって次期大統領選挙が戦われている最中(昭和五十五年(西暦一九八〇年)十月)に全米に暴露して、「ソ連に媚びる、石油危機に対して無策な弱い大統領」というレッテルを貼り、カッター政権を退陣に追い込んだ。
カッター政権は退陣間際の報復として、両国の最新鋭機の専用装備である長射程空対空ミサイル、AIM-54「フェニックス」の禁輸措置を取ったが、鈍重な爆撃機相手なら兎も角、俊敏な戦闘機や戦闘爆撃機が主敵のイラン上空では、フェニックス・ミサイルは精々威嚇にしかならない為、日英両国は「超高価な花火」としてイラン上空で消費した挙句、順次国産ミサイルの使用へと方針を変更したので、米国軍需産業にとっては市場縮小という憂き目になった。
そして「強いアメリカ」「正義のアメリカ」を掲げるロニー・リンガン新米国大統領が就任すると、第三次中東戦争は「戦場をイランに限定した西側対東側の国家総力戦」の様相を呈する様になる。