日本国は手を抜けない(15)
昭和五十四年(西暦一九七九年)一月三日、西側世界最大級の石油輸出国であり、潤沢なオイルマネーを背景に近代化革命を推し進めるイラン帝国に於いて、守旧派によるクーデターが発生した。
これに反応し、東側世界最大級の石油輸出国(※東側世界最大の産油国はソ連であったが、産出した石油は殆どが内需に回っていたため、石油輸出量自体は大したことがなかった)であるイラクの大統領に就任し、独裁を確立したサッダーウォ・フッセイーンがアラブ帝国再興を掲げ、石油積出の要所であったシャトル・アラブ川の使用権確保を口実に電撃的にイランへ侵攻を開始。翌日にはイランと国境を接するソ連が「イラン人民の要請」で国境を相次いで突破し、第三次中東戦争(第一次湾岸戦争、ペルシャ大乱とも言う)が勃発した。
もう少し戦争の背景を掘り下げておくと、話は第二次中東戦争にまで遡る。
第二次中東戦争に於いて、「悪役」に追いやられたイスラエルは以前にも況してソ連へと接近。そのソ連の仲介によって、同じ東側に属するシリア、イラクとの間に相互不可侵を約した秘密条約を締結し、四方八方が敵の状態を脱した。
そしてソ連は、カスピ海の東西で国境を接する西側世界随一の石油輸出国であり、エジプト王国に次いで最も「西側化(※確固たる立憲君主制が敷かれ政治的に安定し発展している様を指す)」しているイランの不安定化、若しくは政権転覆による東側化を画策する様になる。
地図を見て貰えば分かりやすいのだが、イランが東側へと転向すれば、主としてクルド人が多い地域(トルコ西部、イラク北部、イラン西部)がソ連と地続きとなり、GPAのアーシアン・リングによって封じ込められている東側世界が拡大。更にペルシャ湾の石油輸出国の半分が東側に転向することで、ペルシャ湾の制海権を脅かし、石油価格を任意の値に釣り上げることが出来ると目されたのである。
そしてその為の布石として、自らの生き残りを掛けて「生き残る為にはなんでもやる」東側世界随一の先端技術を誇るイスラエルと、アラブ帝国再興を掲げ豊富なオイルマネーを軍備拡張に思う存分注ぎ込めるイラクに対し、ソ連は軍事援助を拡大すると同時に、トルコ・イラン国内のクルド人勢力や反体制派を煽りに煽り、満を持してイラン帝国でのクーデター発生と歩調を合わせての侵攻となったのだった。
この一大変事に対し、西側世界の対応は後手後手に回った。米国のカッター政権(当時)の、米ソ間の核戦争への発展を恐れて派兵を渋る弱腰な姿勢は、ソ連とイラクを付け上がらせ、カスピ海を押し渡ったソ連軍空挺部隊が混乱するイラン帝都テヘランに押し迫り、空港や道路は避難民で溢れた。
偶々オマーン湾付近に居た日本国海上自衛隊の空母機動部隊の艦載機を、日本国が「人道上の緊急避難措置」としてテヘラン上空に派遣することを決断していなければ、そのままソ連軍の斬首作戦は成功し、多数の(西側世界の)民間人が人質に取られていたことは想像に難くない。
日の丸を付けた海洋迷彩のF-4EJ、合わせて四十機余りがソ連空軍機とカスピ海上空で死闘を演じている間に、クーデターを鎮圧し指揮系統を立て直したイラン帝国は「聖戦」を宣言。これに呼応してエジプト王国、サウジアラビア王国が相次いでイラクとの国境線近くに部隊を派遣してイラク軍の一部を釘付けにすると同時に、イランへ義勇軍を派遣すると、戦況は各地で膠着。足掛け八年に及ぶ、泥沼の消耗戦が始まったのである。