日本国は手を抜けない(14)
斯くして昭和五十四年(西暦一九七九年)までに、次々と新世代の戦艦と空母が海上自衛隊には就役していった訳であるが、ではその航空戦力、特に艦隊防空を担う戦闘機は、一体どの様な機材を使用していたのかについて触れておきたい。
第二次世界大戦が終わった後、日本国の手元に残された空母は「瑞鶴」「葛城」「阿蘇」「伊吹」の四隻であった。
これらに米国製油圧カタパルトを装備し、F8F「ベアキャット」のみを載せて艦隊防空に専念させるという状態で、極東戦争に臨んだ。
運用の柔軟性を高める為、使用機材を海空で統一する方針が固まったのがこの頃である。
極東戦争が終わると、米国から大改装されたエセックス級が供与される。これらは「ふよう」「ほうせん」「れいせん」「でいご」と名付けられ、主としてF9F「クーガー」を運用して第二次中東戦争に臨み、第二次インドシナ戦争後期から順次、米軍とほぼ歩調を合わせる様にして、カタパルトを蒸気式の新型に換装すると同時に新鋭機のF4H「ファントムⅡ」(※後の米軍の命名規則改正に従いF-4EJ)に転換していった。
第二次インドシナ戦争が終結するとその後十年余りの間、大規模な戦争を経験しない戦間期が訪れる(そもそも五年に一度戦争をしていたのが異常事態なのである)。
その間に第二次インドシナ戦争の戦訓から、「対艦ミサイルを運用可能」で「地形追随(超低空)飛行が可能」な戦闘爆撃機の整備の必要性が叫ばれ、最終的にF-4EJへの対艦ミサイル運用能力の付与と、専従任務機としてF-111J「アードバーク」が二個飛行隊(四十八機)導入された。
そして運用開始から十五年が経過し、老朽化の進度が速い機体は早くも退役が始まるF-4EJの後継機として、米国に遅れること五年(!)の早さで満を持して昭和五十四年(西暦一九七九年)から導入されることになったのがF-14J「トムキャット」である。
鳴物入りで独自開発の艦上早期警戒管制機(JE-1)と共に導入されたF-14Jであったものの、異機種間空戦訓練(DACT)では後発の英海軍が採用したF-15RNに、度々格闘戦で敗北を喫した上(許容される大Gの限界が違ったため)、時代の趨勢はマルチロール機を欲しており、その意味でほぼ純粋な艦隊防空戦闘機であるF-14Jは、導入開始時点では運用思想にマッチした機種であったものの、時代の変遷と共に要求される様になった任務には対応出来る余地が少なかったため、後の時代で行われた評価は総じて低いものとなってしまったのだが、この時点ではその様なことが起きるとは誰も予想していなかった。
ここまでは(艦隊)防空戦闘機を見てきたが、自衛隊に要求される任務は防空のみに止まらない。特に両シナ海の海賊に対する哨戒任務は手を抜いてはいけないものであり、離島防衛の為に当初はF8Fを、後に米海軍を退役したA-1「スカイレイダー」を導入し、後のジェット機の運用に十分な滑走路長を取れない、小さな離島向けに配備していた。
その後、英国で初の実用垂直離着陸(VTOL)戦闘機「ハリアー」が完成すると、同機にレーダーを搭載した艦上戦闘機型「シーハリアーFRS.1」を、A-1の後継として導入して現在に至っている。
ところでここに至るまで、ジェット戦闘機の独自開発を行った形跡が無いことがお分かりいただけるだろうか。
実際、誘導弾やそれを運用する指令装置、読み替え装置、或いはレーダーや機載コンピューターであれば開発しているし、機体の製造自体もノックダウン生産、ライセンス生産ならしていて、製造する能力・改良する能力だけなら持っている。
然し乍ら、第二次世界大戦の敗戦後直ぐに優れた舶来物(米国製兵器)で刷新した直後に起きた極東戦争で、従来の国産機業界の設計能力は失われてしまい、その後のジェット戦闘機時代には取り残されてしまい、現在にまで至っているというのが実情であり、それが日本国の国力の限界である、とも言えた。