日本国は手を抜けない(12)
昭和四〇年(西暦一九六五年)にもなると、ラオス、カンボジアに侵攻したベトナム軍はほぼ従来の国境線まで叩き返され、その国境線を守備する部隊も、UNPPFの砲兵が断続的に撃ち込んでくる火力戦に曝され、後退を余儀なくされる有様だった。UNPPFはラオス、カンボジアの国境線を絶対に越境することは無かったが、かと言って国境線にベトナム軍が近付くことを決して許さなかったのである。
また海上でも、対艦ミサイルにより散々に航路を脅かしてきた仏越ソ軍に対し、米国から新型艦上戦闘機(F-4EJ)の供与や新世代防空艦(原子力ミサイル巡洋艦「ロングビーチ」「ホワイトピーチ」)が派遣された事によって、次第に日台比が有利に戦闘を進められる様になっていた。
更に欧州では、度重なるフランスの暴挙に対し経済制裁を西側欧州諸国が発動しており、GPAにより高度経済成長の波に乗っているそれらの国々に比して、フランスの景気は低迷し一向に打開の糸口が見えないことから、反政府暴動が勃発。遂には全国・全植民地規模のゼネラル・ストライキとなって国家機能が麻痺し、左派政権が崩壊。ド・ゴール元大統領に対する全権委任法が議会を通過しド・ゴール政権(第五共和政)が成立すると、俄かに政治の季節がやって来た。
ド・ゴール政権は、第二次インドシナ戦争からの撤退を表明。派兵されている義勇軍(という名の実質的な正規軍)の戦闘行動の即日停止を命じ、命令に従わない場合は以後テロリストとして扱い、その処罰についてフランスは異議を唱えないものとし、また希望する植民地についてはその独立を即時認めるものとする声明(ステイトメント)を発表した。
ベトナム民主共和国とソ連は強く抗議したが、第五共和政の終戦への意思は固く、その事が第二次インドシナ戦争のクライマックスとなるカタストロフィを呼び込むことになる。
同年四月三十日、ベトナム南部最大の都市サイゴンに於いて、配備された核弾頭の行方を巡って義勇フランス軍と越ソ軍との間に戦闘が生起。そして何方がそのスイッチを押したか今となっては定かでないが、午前十一時三十分頃、サイゴンはTNT火薬にして一メガトンと推定される核弾頭の地上爆発によって、この世から消滅した。
サイゴン消滅が報じられるや、長きに渡る戦争で疲弊していたベトナム全土では共産党政権に対する暴動が勃発。共産党政権関係者と義勇ソ連軍は、暴徒によって漏れなく処刑された。
そして無政府状態となった同国に対し、UNPPFはラオス・カンボジアの両戦線を相次いで越境し、ベトナム全土を占領し、日本に亡命していた阮朝の末裔、クォン・デの一子が帰国する旨を喧伝すると、ベトナム国民はこれを歓迎し、日本国同様の象徴君主を戴く立憲君主制国家、ベトナム帝国が成立。翌昭和四十一年(一九六六年)、ベトナム帝国・フランスと日本国・台湾・フィリピンは和平協定を交わし、第二次インドシナ戦争、またの名をベトナム戦争という戦争は終結した。
この戦争による死者・行方不明者・負傷者の数は一五〇万人以上にも上ったが、南シナ海・インドシナ半島に於ける局地戦に終始し、極東戦争の様な破滅的な結果(※飽く迄も当社比である)に至らなかったことに、関係各位は安堵の声を漏らしたと言う。
本戦争の終結により、フランスは米国や西側欧州諸国の強い影響下に置かれつつ西側に回帰。独自路線を歩んで低迷した二〇年から脱却し、漸く西側全体の高度経済成長の波に乗って経済が上向くことになるのだが、如何せんその波に乗り遅れた失点は大きく、低下した国際的地位が向上するのは、西暦一九八〇年代まで待つことになる。