日本国は手を抜けない(10)
第二次中東戦争は、日本国の介入によりイスラエル・フランス・ソ連の野望を挫く形で終結した。
戦後、侵略国家のレッテルを貼られたフランスはGPAから締め出される経済制裁が行われた上、大西洋と地中海に展開した米海軍機動部隊が海上封鎖を継続したため、困窮。社会党内閣が崩壊し、一カ月の間に三回も内閣が代わるも、いずれも失墜した面子を取り戻すことに固執し事態打開の糸口を見出せず、挙げ句の果てにはド・ゴール元大統領を担ぎ出そうとする勢力の動きを察知するや、国家反逆罪の疑いで予防拘禁する始末だった。
イスラエルはその過激極まる民族主義思想(シオニズム)が祟って、周囲のアラブ諸国から「ナチスと本質的に変わりなし」と悪様に罵られ対立を深め、西側世界、特に「地球儀を俯瞰する外交」を掲げ世界各地の旧植民地の自立を支援し、擁護する立場から、イスラエルと利益が反目するアメリカに見切りを付けて、ユダヤ系が秘密警察で幅を利かせているソ連との軍事的連帯を深め、富国強兵・国民皆兵を合言葉に人口や国土面積からすると法外な量の軍備を積み上げていた。
ソ連は戦後、侵略国家の肩を持つ危険な超大国として、西側諸国から名指しで批判の集中砲火を浴びせられ、その国威を大きく損なった。西側でも東側でもない第三世界と呼ばれる地域(アフリカ・南アメリカ)の国々を取り込もうと躍起になって外交攻勢を仕掛けていたが、その成果は芳しく無かった。
対して日本国は、第二次世界大戦に於ける侵略者側として大きく損なっていた国際的評価を、新生日本国は大日本帝國とは違い信ずるに足る相手である、として大いに面目を施す結果となった。
昭和三十二年(西暦一九五七年)には念願の国際連合加盟を果たし、早々に第二次中東戦争に於ける機能不全から改革が叫ばれ実施された国連総会に於いて、国連安保理の非常任理事国入りを決めると、日本国が(米英から花を持たせてもらう形で)音頭を取って、常任理事国に付与されていた「拒否権」などの特権を廃止。更にこれまで組織の度に国連加盟国から兵力を拠出する形を取っていた国際連合平和維持軍について、国連自身が募兵を行なって全世界規模で紛争に対応する「国際連合常設平和維持軍(UNPPF)」の創設を提言。賛成多数を得て実現に漕ぎ着けるなど、外交的成果を次々と得ていた。
この頃の日本国は、内政的には極東戦争からの復興による巨大な内需に、米国からの大規模投資(旧式化した製造設備の払い下げとも言う)が合わさって高度経済成長に突入しており、全体的に上り調子であった。平均して七パーセント、大きい時には十五パーセントにも達し、国内総生産が第二次世界大戦前の二倍にも達したことを受けた、「最早(極東)戦争後ではない」という時の内閣の発言は、それを如実に物語っていると言えるだろう。
そしてこの第二次中東戦争に於ける国運の明暗が、次なる戦争、第二次インドシナ半島戦争の幕を開けることになった。
従来、インドシナ半島はフランスの植民地であり、第二次世界大戦後、一時的に米軍が進駐した後、フランス政府の手に返還され再度植民地化された。
されたのだが、当時はまだ西側に属していたフランスを扼するため、ソ連はベトミンと呼ばれる共産党系ベトナム独立運動組織を活動させ、第一次インドシナ戦争が勃発。この第一次インドシナ戦争に於いて、ベトミンは軍民合わせて七十五万人と言われる膨大な死傷者を出しながらもフランス軍を潰滅し、同軍をインドシナ半島からの撤退に追い込んだ。既にこの辺りで「独自路線」を掲げるフランスは西側世界から支持を失いつつあり、インドシナ半島での無惨な敗退を挽回する外交的な余地を与えられなかった。
インドシナ半島はベトナム民主共和国として独立を宣言し、東側世界の一員となった。が、その後第二次中東戦争に於いてイスラエル・フランス連合軍にソ連が与すると、状況が変わる。第二次中東戦争後、イスラエルとフランスはソ連に接近し半ば東側世界の一員となり、ソ連が仲介する形でフランスとベトナムは「和解」。仏越ソ安全保障条約を結び、トンキン湾にはソ連海軍のエスコートを受けて海上封鎖を突破し、南アメリカ大陸を回って地球を半周したフランス海軍の機動部隊が遊弋する様になったのである。