9.ぶつける思い
長い間心の奥に閉じ込めていた想いを、今……
本当なら、係長として部下の無事を確認し、検挙した連中の裏付け捜査をして起訴への準備をしなくてはならない。しかし、霧生は既に鸞の兄である孔明に連絡を入れており、現場まで迎えに来させていた。
店から出てきた弟は、別人のように艶気を振りまいて周囲の者を悩殺し尽くしており、そんな姿を見ても孔明には一瞬誰だか分からなかった。だが、人混みの中の孔明を見つけた途端、安堵して膝から崩れ落ちそうになったその体は、地面に倒れこむ前にしっかりと孔明が抱き止めたのであった。
助手席に乗せられた後、暫く孔明は大学時代の先輩である霧生と話をしていて戻ってこなかった。
兄の匂いを嗅いだ途端、鸞は恐怖で震えだした。身体中を、誰とも知れぬ手が這い回ったことを思い出し、思わずドアを開けて胃の中のものを全て吐き出してしまった。
「鸞、大丈夫か、おい」
慌てて駆け戻ってきた孔明が、手にしていた水のペットボトルを手渡して口を濯がせ、その濡れた唇を指で丹念に拭った。
「無茶をしたな。お前らしくもない」
「お前らしくって、何……兄上が思ってる僕って、貞淑で大人しくて、泣き虫? 違うよ……ホントはね……」
鸞は孔明の手を自分の下腹部へと引き入れた。驚いて手を引っ込めようとする孔明だったが、しっかりと握りしめた鸞の手がそれを許さなかった。
「触って」
「どうかしてる」
「触って……兄上の手で、触って。兄上だけが僕に触ったことにして」
捜査の中で何があったのか、そこはもうしっかりと変化をしていた。いつもの鸞の慎み深さの奥底に隠れていた猛々しさに触れたようで、孔明は体の奥に痛みが走るのを感じた。
「狼藉を受けたのか」
「仮にも僕だよ、警官だよ。そんなわけないじゃん……でも、こうして最初に僕に触れるのは、兄上であって欲しかった……ずっと、ずっと、本当はいやらしいこといっぱい想像して、こんな歳まで誰とも肌を合わせずにきたんだ。だって、初めては兄上がいいんだもん。僕は本当は、欲情をなかったことにして涼しい顔をしているだけの、どうしようもなく浅ましい人間なんだ。軽蔑しろよ、そういう目で、僕は兄上を見ていたんだ」
子供のように泣き出した鸞の体を背もたれに預け、孔明はシートベルトを締めてやった。
「待って……」
「黙れ」
何かを決意したような硬い表情で、孔明は運転席に座った。
「何も言うな、何も聞くな」
黒のSUVが、新宿から走り出した。
孔明が駆るSUVは、青梅街道を走り、所沢に入ったところで街道筋のラブホテルに吸い込まれていった。
部屋に入るまでの手続きを適当に済ませる合間、鸞は恥ずかしそうに顔を俯けたままであった。
もどかし気に部屋のドアを開けて鸞を放り込み、孔明は押し入るようにして鍵を閉めるなり、鸞を抱きしめて唇を吸った。
泣きそうな顔をして眉を顰め、息も吸えぬ程に呼吸を乱す鸞が、堪らず崩折れようとしても、孔明は鸞の両足の中に自分の膝を入れて体を支え、逃げることを許さなかった。
「ダメ……もう、許して」
やっとの思いで孔明を突き飛ばし、鸞はベッドに体を投げ出した。ハアハアと吹子のように大きく呼吸を繰り返しながら鏡張りの天井を見上げると、長い髪の鬘に青いコンタクト、化粧をしてワンピースの裾を乱し、露わになった下着の中だけが男らしく布地を突き上げている、色情に満ちた己の姿が映っていた。
「何これ……僕、こんな恥ずかしい姿してたの? 」
うわっと、鸞は両手で顔を覆い、泣き出してしまった。
何というみっともない姿を兄に見せてしまっていたのか。
指の間から兄を見れば、入り口に佇んだまま、ただじっと床を見つめている。その横顔はいつものポーカーフェイスではない。かなり、動揺しているように見える。
「兄上」
「……誰か、お前に触れたのか」
「あ……いえ……」
直也に肌を、秘所を指で弄られたとは、とても言えない。鸞は起き上がり、ただ必死に首を振った。
「嘘だ。おまえ、自分がどんな姿しているかわかっただろ。そんな顔をして、あの街のあんな場所で、悪い奴らを寄せ付けないはずがないんだ! なんであんな無茶をした! 」
孔明が絶叫した。普段、亮子の悪さに対しても滅多に声を荒げない孔明が、髪を振り乱すようにして取り乱している。鸞より余程、ダメージを受けたかのように、孔明はその場に手をついて拳を握りしめた。
「私は狭量だ。本当は、おまえが誰かに微笑むのさえ嫌な時がある。霧生先輩に訳知り顔でお前のことを言われるのだって、不愉快な時がある……そんな欲情した顔、私以外に見せるな……」
「兄上……」
鸞はベッドから滑り降り、床に手をついたまま慟哭する孔明に、恐る恐る手を伸ばした。
「鸞……もう、抑えることができない。おまえが欲しい、一度だけでいい。思いを遂げたら、このまま私はどこかに消える。お前の未来を邪魔したり、苦しめたり傷つけたりはしない」
自分の肩に孔明の頭を抱き寄せ、鸞はその髪を優しく撫でた。
「これだけ待たされて、一度きりで手放したりするもんか」
不謹慎かもしれないが、兄のこんな狼狽えた姿を見て嬉しくてならない。これ程までにポーカーフェイスを乱して自分への思いをぶつけてくれる兄が、無性に愛おしくてならない。何しろ一方通行だと思っていたのだ。兄が大好きな弟の、ちょっと行き過ぎた愛情……兄はむしろ、そんな自分に呆れて腰が引けているのではとさえ思っていたのだ。
「今までずっと、苦しかった。苦しくて、あの時私はおまえから……逃げた」
元々警察官になるのは孔明の筈であった。しかし、鸞が警察官を目指し始めたことを知ると、大学卒業後に国家公務員試験を受けぬまま姿を消してしまったのだ、ある日忽然と。鸞がフランスの大学院に留学をしたのは、孔明がフランスにいるらしいと父から聞いたからだ。そんな不確かな情報でも兄に会いたくて、探したくて、鸞は気も狂わんばかりに勉強をしてフランスに行ったのに、会えなかったのだ。
かく言う孔明とて、鸞の残像を振り切る思いでフランス外人部隊に身を置き、いつ屍になっても良いと命を差し出すような生き方をしていた筈であったのが、鸞が警察大学校の寮に入るというその日、警察組織という激流に飛び込む弟を何としても見守りたい一念で、戻った、いや、戻らずにはおれなかった。
再会後2年が経っても、二人はもどかしいまでに兄弟であり続けた。兄のままでいい、弟のままでいい、離れるくらいなら、そんな仮面の奥に激情を押し隠してなかったことにしていい、と。
「兄上、大好きだよ。生まれたときからずっと、ずっと」
しかし、あの直也に触れられて、体の奥に今まで見ぬふりをしていた何かがちゃんといたことを知ってしまった。この兄に抱かれたいという、どうしようもなく貪欲でいやらしい、制御不能の生き物がいたことを。一度頭をもたげてしまったら、隠すことも誤魔化す事も出来ず、無様にぶつけるしかなかった。
「愛しているんだ、鸞」
そんな劣情をぶつけたのに、孔明は拒むどころか、真情を、ありのままの兄の姿を、見せてくれた。
「僕もだよ。今までもこれからも兄上だけのものだから。ねぇ、僕に触れて。これからもずっと、僕を抱きしめて。僕だって、兄上と……一つになりたいんだ」
もう、押し隠す必要がない。身体を重ねて、本当の家族になるのもまた、兄と自分の必然なのだ。
兄の顔を両手で包み、自分を見つめて涙ぐむその目元に、鼻に、唇に、鸞は優しいキスを捧げた。
「潜入の時、はっきりと気付いたんだ」
えっ、と孔明が体を離して鸞の顔を覗き込んだ。
「やはり、何かされたのか」
三白眼が狼狽えている。
「可愛い……ねぇ、兄上は僕に抱かれたい? それとも……僕を抱きたい? 」
キラキラした青い目で真っ直ぐに問いかける鸞に圧倒されるがまま、孔明は目を瞬かせた。
「僕はね、兄上にこうやって抱っこしてもらって、よしよししてもらって……」
「してもらって……? 」
潤んだ瞳で孔明を捉えていた鸞が、ふと頰を赤らめて俯き、口籠った。
「猫に……たい」
猫? と孔明が耳を近づけて問い直すと、鸞は両手で顔を覆いながらもう一度小声で呟いた。
「だからっ……入れられ……たいの」
「う……すまんっ」
突然、孔明が鼻を押さえてティッシュを探し始めた。
「え、なに、鼻血? 」
2人してウロウロと部屋の中を探し回り、ベッドサイドにティッシュを見つけ、慌てて孔明の鼻に当てた。
その枕元には、行為に必要と思われる色々なアイテムがあり、2人は並んで座ってそれらを一つ一つ手に取ってみた。
「凄いな……」
「あ、このローション色んな香りがあるよ。兄上はどれがいい? いちご? メロン? ぶどう? 」
切り替わりの速さというか、邪気のなさというか……つい先ほどまで、あの二丁目にいるゲイを片端から悩殺してしまいそうな濃厚な色気を全身から発散していたとは思えぬほどの、淫微な影が消えた鸞の笑顔が眩しくて、孔明は堪らずに抱きしめ、そのままベッドに横たえた。
「……メロン」
華奢な首筋に舌を這わせながら答える孔明の耳元で、鸞がクスリと笑った。
鸞の服を脱がせた孔明は、震える指先でその白い肌に触れた。鸞も、おずおずと、孔明の逞しい肌に手を触れた。ぎこちなくとも一度抱き合って肌が重なった瞬間、求め合う事に一切の躊躇いも消え失せた。身体中に孔明の優しいキスが降り注がれ、芯の芯まで解されて蕩かされるがまま、鸞は孔明の腕の中で大胆に体を開いた。
恥じらいながらも腕の中で素直に応じる鸞の艶やかな顔を、孔明は愛しげに見下ろし、額にかかる前髪を優しく掻き分けてやった。艶やかにぬめる唇からは、荒い息遣いが漏れる。
「今年27になるとは思えんな。神々しくて、美しい……」
「兄上に捧げるために、大切にしておいたんだもの……あ……」
「可愛い事を」
そのあるがままの反応が愛しくて、何度果てても欲しがり続ける鸞の中に、浅ましいほどに鎮まることを知らぬ己を捧げ、共に大きな波のうねりに身を任せた。
朝焼けの中、青梅街道を飛ばす孔明の太腿には、鸞の手がずっと添えられていた。信号で止まるたびに軽いキスを交わすだけで、抱かれたような幸福感に満たされた。ずっと孔明の熱の記憶が体の中で疼いたまま、鸞はいつしか助手席で寝息を立てていた。