6.父の苦悩
玄徳パパ、悩んでいます……
その頃、狸穴の桔梗原家の西洋館では、ダイニングテーブルにテイクアウトの牛丼が二つ置かれ、玄徳と孔明が何とも言えぬ顔で見つめていた。
「父上、これはこれで中々乙なものですよ」
「いや、有り難く頂戴するのだが……鸞はともかく、亮子が帰っていないというのはどういうことなのだ。鸞が仕事で遅くなるときは、あいつが少し家の事をやっても良かろう」
「家事に男女の別はなしと、母上に叱られますよ。たまたま、亮子より鸞の方が家事の才があったというだけのことですから」
2人は同時に牛丼のプラスチック製の蓋を開けた。食欲をそそる煙に誘われ、いただきますと掛け声もそこそこに、2人は夢中で頬張り出した。そして、瞬殺で食べ終えてしまった。
「あと2,3個はあった方が良かったかな」
「亮子だと5個は食うぞ。孔明よ、亮子は何をしておる」
「さぁ。学校では特別遅くなるような事案はありませんでしたが……あ、ここのところ、高校生が夜に繁華街を彷徨いたりする案件が多発しているそうです」
「まさかのう」
「いや、ウチの子に限って」
思わずよく聞くセリフを口にしてしまい、孔明は咄嗟に口を閉じた。
「親バカじゃの」
「父上が放任しすぎなんです。鸞は兄であって親ではありません。私とて、同じです。一度父上から厳しく亮子に意見なさってください。鸞が家の事で悩みを抱えれば、それは即ち仕事の上での命の危険を意味します」
「おいおい」
「貴方が一番お分かりの筈だ。もう少し、鸞と亮子に向き合ってやってください」
「うむ……」
苦々しい顔で玄徳が頷くが、その目線はテーブルの上を泳ぎ、得心が言っていない事を示していた。
「鸞に向き合うと、母上を思い出しますか」
ズバリ言い当てられ、玄徳は苦笑しながらつるりと顔を手で撫でた。
「あやつは……鸞の奴は美鳥が亡くなった途端、あっさりとピアノを捨ててしまった。儂が、美鳥の代わりとして存在する事を望んでいるかのように感じたのかもしれん。そんなことは断じて無いのだが……まさか、法学部を出ておまえを追うようにフランスの大学院にまで行って、キャリアとして警察に入ろうとは……。美鳥と同じ顔で、ピアノに触れようとしないあの子に、何かを言おうとしても言えんのじゃ」
「では亮子は」
「単に不憫での。小さいうちに母を亡くしておるのだから」
孔明は、空き容器をまとめてビニール袋にまとめ、茶を入れた。入間に住む美鳥の叔母が毎年送ってくれるのだ。因みに、狭山茶の主産地は入間市であり、狭山市では無い。元々入間市の茶の栽培の盛んな地域に『狭山』の名がつく地名が多かったのだが、ほんの僅かに狭山市の方が市政に移行するのが早かったため、狭山の名を先に取られてしまったのである。茶業試験場など市を上げて茶の生産と研究に力を入れているのは、入間市なのである。と、礼の電話をするたびに入間市民であるその叔母は捲し立てるのであるが……。
「新茶か。この深い甘みと苦味が堪らんな、狭山茶は。体の中がさっぱりとする」
「ええ。この濃い味に慣れると、他の茶が物足りなく感じるほどです……父上、時に亮子と2人で、出かけてやってはくれませんか」
「儂に、何か話してくれるかの」
「あいつが何も話さなくったっていいんですよ。ゆっくりと母上のお話など、してやってください。あいつがちゃんと母上に愛されていた事を、父上の口から、話してやってください」
「父の、それが父の務めかの」
玄徳は茶を啜り、湯飲みを洗うべく流し台に立った。しかし、どのスポンジで何を垂らして使えば良いのかさっぱりわからない。
「私が後でやりますから、お休みください」
「すまんのう……ちょっと出て参る」
やはり行かれますか、と孔明は素知らぬふりで背を向けたまま玄徳を送り出した。
これまでも何度も、亮子は鸞と喧嘩をして家を飛び出している。その度に探しに行くのは玄徳の役目であった。亮子なりの父への甘えでもあり、普段忙しくて余り構ってやれない玄徳にとっては、父である事を思い出させてくれる貴重な時間でもあったのだ。
その分、鸞を慰めるのは孔明の役目であった。しかし彼が孔明の腕の中で泣いている時には既に、結論が出ているのだ。美鳥もそうだが、ピアノで身を立てる者はかくも強いのかと思うほどに、鸞の芯は太く、強い。どんなに打たれても、口では甘えた事を言っていても、だからと言って目の前のことから逃げることは決してしない。本当は、慰めなどは鸞には不要だったのだ。
むしろ、そう役目を孔明に与えてくれることで、孔明はかろうじて兄という面目を保ってきたに過ぎない。
いつもそうだった。何をやっても、鸞の強さには敵わないと、あの美しく生命力に満ちた瞳に惹かれるばかりの日々であった。