4. 四谷の姫刑事
四谷署の組織犯罪対策課の大部屋の端、薬物銃器対策係の机が5つ並んでいるうちの窓際の誕生席に、桔梗原鸞は荷物を置いた。玄徳に遠慮をする連中の嫌味に晒され、警部補時代にさんざん盥回しにされて苦渋を嘗めてきた鸞が、キャリア2年目の一斉昇進で警部となり、漸く腰を落ち着けることができたのがこの係長職である。
警部で所轄の係長はいかにも低いようにも思えるが、現場を希望する鸞の要望が初めて受け入れられた上での人事であり、鸞自身、今の仕事場が気に入っていた。
この課はそもそも組織犯罪対策つまり、マル暴さん達のおあす場所である。日々、強面の刑事達に囲まれ、鸞はお姫様のように大切にされていた。
「お早う、ランラン」
そこへ、若き課長・霧生久紀が入ってきた。長身から自慢気に繰り出される長い足でズカズカと、真っ直ぐに鸞の元へとやってきた。
昨年の昇級試験に合格して警部となり、研修後の配属で昨年末に、少年係の係長職から元々の得意分野であったというマル暴に見事に返り咲いた人物である。その上、警視庁管区の女子アンケートで、抱かれたい男第1位を6年連続で維持する程の、超がつく2枚目であった。
「おおい、ランラン」
鞄から書類や私物を並べながら、鸞は立ち上がりもせずに座ったまま目だけを霧生に向けた。ピアニストである母•美鳥がいたら、厳しい叱責が飛んでくるだろう。音楽界は礼儀に厳しい。母も礼儀に厳しい人だった。
「お早うございます。課長」
体の中に燻る苛立ちが暴発しそうで、鸞はムッスリと口を尖らせていた。
「おやおや、姫は御機嫌斜めかな」
「いえ、別に」
実はこの男、兄・孔明と同じ大学の出身で、ゼミの先輩にあたる。鸞がこの課に配属された時、珍しい名前だけにすぐ警視副総監の息子で孔明の弟だと気付いたのだという。そういう自分は、警視庁警備部警護課課長・霧生警視正のご舎弟様であるというのに、だ。そもそも、腫れ物に触るような扱い方をされていた鸞を、この霧生だけが二つ返事で引き受けてくれたのは、そんな昔の経緯があったからなのだろうと、むしろ煩わしさえ感じることがある。自分が知らない兄の学生時代を訳知り顔で話している時など、許されるならその端正な二枚目面を引っ掻いてやりたくなる衝動に駆られる程だ。
「ランランはウチのアイドルなんだから、元気でいてくれないと」
「そのランランっての、やめてください」
相手にしていませんっというメッセージを態度で示すべく、鸞は構わずカバンを下において書類のチェックを始めた。
「おや、お人形さんのような可愛いお顔で姫が怒った」
「姫って言うのもやめていただきたい」
睨もうと顔を上げると、すぐ鼻先に無駄に整った男前の顔があった。
「生理? 」
「ないわっ」
今日の霧生課長はしつこい。この人こそ何かあったのかと探ると、耳の側に引っかき傷があった。
「……課長こそ、カノジョと喧嘩ですか」
グッと、耳元を抑えて課長が押し黙った。
「いやぁ、ウチもさ、下に弟が2人いるけど、シャムネコと豆柴みたいに性格全然違うから、もう大変」
ああ、あのモデルをやっている超絶美形の弟さんと、ピアニストの弟さんですね、とうっかり答えようとして、鸞は口を固く結んだ。
「その様子だと孔明と何かあったか? いや、妹さんの方か。年頃だもんな」
兄と極親しい者である証のように「コウメイ」だの「コウ」だのと、この男が口にするのも、癪に障る。
「兄の名は、ひろあき、ですので」
とはいえ、木で鼻をくくったような返答は、本来の鸞の態度ではない。完璧な躾の賜物である礼儀作法と、元はピアニスト志望だった故に染み付いた縦社会における従順さとが、軋轢のないスムーズな職場への融合を果たすモデルケースのような若者なのである。
気を悪くした風も見せず、むしろ諭すように、霧生は真っ直ぐに鸞を見据えた。
「ま、キャリアのあんたはこれからどんどん上に行くだろう。本来ならば既に課長補佐か、俺のポストに座っていてもおかしくはない。だからこそ覚えておけよ。指揮権を持つものがモヤモヤしていると部下が危険になる。今日は二丁目のクラブで粗悪なヤクの取引を的にかけるんだ。集中してくれ」
しまった……見る間に青ざめた鸞は咄嗟に立ち上がって頭を下げた。如何に兄との縁による昔からの知己であろうと、仮にも上司に対してとるべき態度ではなかった。鸞は一瞬でも弛緩した己を恥じた。
「申し訳ありませんっ」
気難しい姫の顔から、一徹な警察官の顔に戻った鸞の態度に、霧生は仰け反る勢いで笑った。
「良かった、いつものランランだな。まあ肩の力抜けって。話なら、いつでも聞くから、な」
抱かれたい男6年連続第1位は伊達ではない……鸞は霧生久紀という男の懐の深さに、ただ己の未熟を恥じ入るばかりであった。
両頬をパチパチと叩き、鸞は今日のガサ入れの作戦内容の確認と準備に取り掛かった。
やがて、ぞくぞくとヤクザの皆さん……もとい、強面の組対の皆さんがゾロゾロと出勤してきては、鸞に明るく声をかけてきたのであった。
四谷署はゲイタウンとして名高い新宿二丁目をはじめとする歓楽街を管轄する。歌舞伎町エリアとはまた毛色が異なり、外国人勢力は少ない代わりに、反社のフロント企業がビルを所有していたり、『凌ぎ』の吸い上げ場所となっているケースが多い。縄張りも複雑に入り組んでいるが、この四谷署の目が光っている為、今のところ絶妙な均衡を保っている。問題は、反社にも半グレ集団にも属さない、『素人』なのだ。しかも、未成年による犯罪が、ここのところ急増していた。
「奴らには仁義もルールも通用しない。あるのは、享楽性と凶暴性。遊ぶ金欲しさに、年寄りでも子供でも平気で殴りかかる。縦の仁義に管理されている反社の連中が手を拱いている程だ。とはいえ組関係のシノギのキツさはそろそろ限界だ、上納金欲しさに下層連中がまたぞろドラッグに手を出すことも十分ありうる。外国人ブローカーの有無、取引相手、慎重に見極めてから動く。頼むぞ」
「おおう!! 」
霧生課長の檄に、組対の強面達が一斉に咆哮を上げた。後ろで聞いていた鸞が思わずブルッと肩を抱いた。
「オルァ、行くぞォ!! 」
口々にそう吠えながら、刑事達は防弾チョッキを着用し、拳銃の装填を確認して、組対課の部屋から次々と出て行った。
「ランラン、ちょっと」
残った鸞と、端に座っていた制服警官も一緒に呼び寄せ、課長がターゲットのクラブの見取り図を広げた。
「ランランと橋口君の2人には先行してクラブに潜入してもらう。取引を現認してくれ」
「承知しました」
「ただ、この先の街での捜査を考えると、大っぴらに顔バレするのもマズイな……」
霧生課長の眼鏡に適ったものか、橋口と呼ばれた警官はまだ若く、学生といっても通用する。だが、鸞と比べると柔らかさに掛け、警察官を見慣れた人間にはすぐにそれと見破られてしまいそうな硬さが気になった。
課長もそれを懸念したものか、ううむと、唸った。
「ランランはただでさえ目を引くしなぁ……じゃ、フランス人でいこう。よし、瞳ちゃーん」
鸞が聞き返すまでもなく、霧生課長が手を叩くと、制服姿の若い女性警察官が黒い大きなバックを抱え、髪にクリップとクシを挿した姿で現れた。
「橋口君は学生風に、ランランは外国人。留学生とその友達って感じで」
「了解です」
「あの、課長、話が見えないんですが……」
「はいはい、見えなくていいの。見取り図だけだと相手が武器を持っている場合に危ないからね、ちゃんと目視で確認して欲しいのよ。取引の現場も、間違いなく押さえたいし。大丈夫。2人が潜入した後は、ちゃんとウチのゴリラ達が固めるから」
はい、行った行ったとばかり、霧生課長はその無駄に男前な笑顔を見せて2人を追い立てたのだった。