3.八重垣姫
啓明学園高校は、桔梗原家の屋敷から徒歩にして20分ほど、神谷町を虎ノ門に向かって国道一号線を跨いだあたりに位置し、亮子も孔明も、徒歩にて通っていた。時間に余裕のある日などは、行き掛けの駄賃に愛宕神社の鳥居まで階段を登って手を合わせたりもするのだ。
だが、今日は皿洗いに手間取り、袖口が濡れたままの気持ちの悪い状態のまま、孔明は早足で神社の前を通り過ぎた。
始業ギリギリに滑り込み、何とか朝の職員会議には間に合った。
「ここのところ、他校の生徒に混じり、本校の生徒が度々繁華街を彷徨いているとの報告を、最寄りの警察署よりご指摘を受けております。特に六本木、赤坂界隈、渋谷など、徒党を組んで夜歩きをすることのないよう、先生方も気を引き締めて指導に当たってください」
教務主任からの言葉に、孔明の隣で欠伸をかみ殺していた中年の男性教諭が顔を寄せてきた。
「1Bの河南佑月、夜な夜なクラブに出入りしているそうですよ。まぁ派手ですし、男遊びも相当なようで」
「ほう。長嶺先生の3Dは如何ですか、そういう目立つのはいるんですか」
長嶺というその教諭は、3年生のクラスを担任していた。因みに孔明は、担任を持つ事を頑なに拒否している。故に、担任を持つ教諭達より拘束時間は短いものの、手当ては少ない。しかし面倒ごとに1日潰されるよりは余程マシだと、気にも止めていなかった。
「ウチは受験が目の前ですからね。ただ……瀬良田志信がね」
「瀬良田って、あの学年1位の。成績は優秀だと聞いていますが」
「それがさ、ここのところ、来たり来なかったり、素行が悪い。いえ、元々斜に構えていたところがある生徒ですからね、巧妙に隠していたものを、遠慮なく出し始めてきた、というところでしょうか」
瀬良田……その名には覚えがあった。
養父の瀬良田亘は、孔明と同じ高校出身で、同じ剣道部で鎬を削った一つ上の先輩にあたる。後に大学を卒業してすぐ、自殺した実姉の子供を養子にしたと、風の噂では聞いていた。
「養父は外資系だか何だか知りませんけど、全然捕まらなくて、まともに話もできないんですよ。母親は亡くなっているし……女子に瀬良田のおっかけのグループがあって、一緒に夜遊びしているようですよ」
「それは、捨て置けませんね」
教務主任の話はとうに終わっていた。
長嶺は話すだけ話すと、何もなかったように授業へと向かって行った。
「クラブか……」
ま、空手に夢中で髪の手入れすら覚束ないような妹には、別世界の話か……孔明は授業の準備を始めた。
この学校では、高校一般教科としての必修科目はほぼ二年生までに習得させ、3年生は進路別に残りわずかの必修科目の他は選択制になっていた。古典・古文も選択科目になっているが、孔明の古典は人気が高く、文系理系に関わらず履修者が多い。故に、大教室をあてがわれて授業に当たっていた。
3年生の古典は自由度が高く、孔明は今後の社会で役に立つ教養を第一に考え、古典文学とは異なる歌舞伎や浄瑠璃などの題材もふんだんに取り入れていた。今月は歌舞伎の演目をセリフに起こしてみようという試みに取り組んでおり、『本朝廿四孝』が題材になっている。
その中に、件の瀬良田志信もおり、正に今、そのスラリとした長身で壇上に上がり、芝居っ気を込めて読み上げている最中である。アイドル並みの顔立ちも手伝って、まるで役者の読み合わせの如くであった。
「羽が欲しい、飛んでいきたい……」
八重垣姫のセリフを、志信が情感たっぷりに読んで見せた。女生徒達は卒倒しそうな勢いで黄色い声を上げた。一通り読み尽くし、孔明は拍手でその健闘を湛え、自席へと誘った。
「素晴らしい。まるで玉三郎丈の名演を見ているようだった」
しかし、志信は中々席に戻ろうとはせず、壇上の端で拍手をしている孔明に向き直った。
「桔梗原先生は、ここまで想う人がいるんですか」
100名は収容できる大教室が、静まり返った。生徒達が固唾を呑んで孔明の答えを待っている。孔明はそうした質問には慣れているかのように動じることなく、微笑を湛えたまま黒板を見上げた。この演目の主役、長尾謙信の娘・八重垣姫と、信玄の息子・勝頼との、込み入った相関図が書かれてある。切腹して果てたと思っていた許嫁は実は影武者で、身を窶して別の恋人と共に姫の元に現れる。元々武田家のものであった諏訪法性の御兜をきっかけに、その人物が本物の勝頼と知った姫は、思いの丈をぶつけ、やがて結ばれる。しかし長尾謙信に正体が知られ、武田家へ向かう勝頼には追っ手がかかる。女の足では追いつかない。そこで諏訪法性の兜の力を借りて、湖の氷った湖面を渡り、恋人の危急に駆けつける……志信が読んだセリフは正に、父の追っ手がかかったことを知り、急ぎ知らせて勝頼を助けなくてはと焦る、八重垣姫の千々に乱れる想いが込もったセリフなのだ。
「それほどに思い焦がれる人、という存在に巡り会うことが出来たなら、それはとても幸せな事だ。だが、その人の為に命を張れるのが愛だと思っていても、相手にとっては共に生きてくれる事こそが愛でもあるのだ。愛とはエゴでもあるのかな……」
「質問の答えになっていませんよ」
志信の意図は分かっている。自分の養父・亘と高校時代に剣道部で凌ぎを削った後輩にあたる孔明を揶揄からかっているのだ。いや、亘の孔明への執着を知っているのかもしれない。しかし、生徒のこうしたある種の意地悪には慣れている。孔明はポーカーフェイスで心の静謐を保ったまま、志信に向き直った。
孔明の脳裏で、警察バッジをつけたスーツ姿の美貌の弟が、可憐に微笑んでいる。
「いるよ」
きゃあああ!! と女生徒が一斉に立ち上がって孔明を指差して黄色い声を上げた。男子の中にも、憧憬の眼差しで見つめてくる者がある。しかし志信は、鼻白む様子でふてくされていた。
「ねぇねぇ先生、どんな人? いや、誰? アタシたちも知ってる人? 」
女生徒の質問に、孔明は唇に人差し指を立てて答えた。
「内緒。だが、その人は意志が強く、凛としてとても美しく……そしてどうしようもなく可愛い。その人を思うと、確かに胸が苦しくなる時がある。きっと相手もだろう。だが、私はその人に、自分のために命を張って欲しいとは思わない。自分に関わることで不幸にでもなったら……自分を許すことはできないだろう」
女生徒達は涙を浮かべ、誤魔化すことなく真情を吐露する孔明の言葉に聞き入っていた。
「やっぱり、答えになってませんよ、先生」
「いや、人を想うことに、そもそも答えはないのじゃないかな」
志信の目をしっかりと捉え、孔明は真っ直ぐに答えたのであった。