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16.ピアノそして再生

孔明が大好きな鸞のピアノ、再び洋館に響く日が来るのか……


結局明け方まで2人で飲み過ごし、孔明(ひろあき)はのんびりと始発の地下鉄で帰ってきた。

 ちょっとお節介でもある久紀を時には煩い存在などと感じたこともあるが、やはり学生時代からの付き合いというものは、そうそう壊れるものではない。互いの若い頃の失敗を全て知り尽くしている分、つい真情を吐露してしまう。思い返せば恥ずかしい事この上ないのだが、何やら澱を出し切って清々としている自分もいる。


 眩しい木漏れ日を見上げながら、孔明は鼠坂を上り、自宅に辿り着いた。

 と、鍵を差し込もうとした時、中からピアノの音が漏れてきた。

 あの部屋は特段防音処理をしているわけではない。だが、接近している建物もなく、漏れた音は都会の喧騒に埋もれてしまうため、窓だけはペアガラスにして振動を防ぐような処理をしているが、家の中は響き放題であった。

 もどかしげに鍵を回して重厚な扉を開けると、流れてきたのはモーツァルトの『デュポールのメヌエット』の主題による変奏曲であった。可憐な曲で、鸞がモーツァルテウム音楽院留学のチケットをもぎ取るきっかけとなった国際モーツァルトコンクールの国内予選での課題曲である。耳学問ではあるが、この可憐で品のある音の羅列は、鸞の小回りのきく指によくマッチし、真珠が転がるように響いて心地が良い。後期の影を感じさせる曲よりも、こうした明るさを湛えた曲の方が鸞の音色には合う。

 孔明は、そっと鸞の部屋のドアを開け、夢中で弾いている鸞の邪魔をせぬよう、忍び足でソファに座った。

「お帰り」

 流石に、元音楽家の耳は鋭い。既に気配を分かっていたようで、変奏曲の合間に鸞は音を止めてしまった。

「すまん、せっかく弾いていたのに……久しぶりだな。やはりお前の音はいいな」

 酒の酔いも手伝ってか、声がウキウキと弾んでいる。撫で付けた髪など春の風にとうに解け、サラサラと耳の上で揺れている。年齢なりの、いや、30よりはもっと若く清々しく、鸞の目には映った。何と容子(ようす)の良い男なのだと、鸞がうっとりと見つめていると、孔明は無邪気に譜面を指差した。

「もっと、弾いてくれ」

「ダメだよ、全然指が動かない……」

 孔明は立ち上がってピアノの側に歩み寄り、蓋を仕舞おうとする鸞の手を止めた。額に手を当てると、熱はしっかりと下がっている。この土日に休みを確保できれば、体力も戻すことができるだろう。

「ちょっといいか」

 鸞をピアノ用の長椅子の端に追いやり、半分だけ腰を載せるようにして無理に座り、孔明はブラームスのハンガリー舞曲の5番を記憶を頼りに弾いてみた。辿々しいが、何とかなりそうだ。

 四手を鍵盤に並べ、一瞬の静寂の後、鸞が大きく鼻でブレスを取った。それを合図に、2人が弾きだす。初めは兄の指の周り具合を見ながらテンポを合わせていた鸞が、段々とそのスピードを上げて、兄を乗せていく。

「うわぁっ」

 はしゃぐようにしながら、もつれる指に苦戦しつつ、孔明が必死に鸞のテンポに追い縋る。

 悩ましくテンポが変化する中間部は、鸞の料理具合に全て任せ、委ね、乗った。

 再び冒頭の旋律が出てきた時は、初めからインテンポで、鸞は一切の手加減をしなかった。

 最後のカデンツはもう、何を弾いたかわからない、ただテンポに合わせて何か叩いた、という感じだ。

 大笑いしながら、2人の男が天井に顎を向けた。その孔明の左腕に、鸞が両腕を絡ませた。

「ダメだなぁ、全然」

「でも、凄く楽しいね」

「ああ。こういうピアノなら、いいんじゃないか。全く辞めることはないよ。私はおまえのピアノが一番好きだし、こうして一緒に遊ぶのも楽しい」

「うん……ピアノだけ? 好きなのは」

 潤む瞳で覗き込まれ、孔明はそっと額にキスをした。

「全部」

 鸞が孔明の首に両腕を巻きつけ、孔明の唇にしっとりと吸い付くようなキスを返した。そのまま鸞を大切に抱き上げ、孔明はソファの上に鸞を横たえた。

「お酒くさい」

「あ、すまん、歯磨きしてくる」

「ウソ……行かないで」

 鸞に引き寄せられるまま孔明が覆いかぶさった時、ガタンと、階上でドアが開く音がした。どうやら亮子も父も起きてしまったようである。

「しまった……」

 慌てて起き上がり、鸞と孔明はピアノの前に慌てて戻った。

「おおい」

 ノックの後に、亮子と玄徳が続けて入ってきた。まだ6時にもなっていない。

「ごめん、(うるさ)くて起こしちゃったね」

 鸞が詫びると、亮子も玄徳も寝巻き姿のまま黙ってソファに腰掛けた。

「詫びなんかいらねぇから、とっとと弾け」

 相変わらずぶっきら棒に、亮子が言う。孔明は思いついて、亮子を手招きして自分の場所に座らせた。

「え、ええ、おいら無理だって。兄貴より弾けないもん」

 孔明はさっさと、玄徳の隣に腰をおろしてしまっている。鸞はその間にも簡単な譜面を引っ張り出して譜面台に並べた。

「これ、前に教えてあげたことあったよね。シャンパントッカータ」

 ギロックという、子供向けの教本や可愛らしい曲集を出している作曲家の作品で、1台6手、2台8手など、様々な形態で書かれてある。鸞が用意したのは、1台4手版である。

「せーのっ」

「うわっ、待って!! 」

 鸞の掛け声で、構わず始まってしまった前奏に、何とか亮子がカウントをとって合流する。一度始まってしまうと勘が良いのか、その後はえっちらおっちらと、途中消えたりもしながらも、何とか最後まで弾ききった。

「おお、ブラーヴァだ、亮子!! 」

 玄徳は立ち上がって拍手した。

「大げさだよ、父上」

 玄徳はピアノに駆け寄り、2人の子供を後ろからその逞しい両手で抱きしめた。その目は涙に光り、何度もブラーヴァ、ブラーヴォと叫んでいた。


「済まなかったな、私の不徳の致すところだ」

 午睡の後、水を飲みにキッチンに降りてきた孔明に、玄徳は白い封筒を手渡した。

「普段、家の事を任せきりにしていた鸞への、詫びと(ねぎら)いだ。おまえが完璧にエスコートしろ」

「はい? 」

 封筒の中には、葉山のオーベルジュ『葉山(はやま)倶楽部(クラブ)』の宿泊券が入っていた。

「予約は済ませてある。すぐ行け。鸞の体調もあそこでのんびり過ごせば戻るだろう」

 戸惑う孔明に、玄徳は洒落っ気いっぱいのウインクをして見せた。

「いい加減に決めてこい、色男」

「え、あ……」

 何を、とうっかり聞き返しそうになった己の口を手で塞ぎ、孔明は頭を下げた。

 この父はどこまで知っていて、どこまで分かっているのか……。

「亮子とは、映画を見て、銀座の今半でたらふく食べてくる。明日も1日遊んどるから、心配はいらん」

 ひらひらと手を振りながら、玄徳は足取りも軽く出て行った。亮子が父との外出を許諾してくれたのが、望外に嬉しかったに違いないのは、その浮かれた背中からもよく伝わる。


 やっと、家族が再生を始めるのだ……鸞のピアノをきっかけに。

 


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