13.昔の記憶
蚊に刺された程度の、どうしようも無い記憶って……
とは言ったものの、孔明が手にできる情報といえば自宅の住所くらいである。亘は5年前に外資系証券会社を退職し、自分で雑貨の個人輸入代行業を始めていた。ネットでサイトを見る限り、主にサプリやボディメイクなど、スキンケアに関わるものが主になっている。ヨーロッパの有名化粧品の代理店にもなっており、中々の盛況ぶりである。
池袋から西武池袋線の急行に乗り、十分ほどで石神井公園駅についた。ここからのんびりと8分ほど石神井銀座通りを石神井池が見える辺りまで進み、池の遊歩道と並行して伸びている路地を歩くと、目的の家があった。
何度も、来たことのある家だ。亘の実家である。亘と志信は今は六本木のマンション住まいだが、とっくに捜査のメスが入り、無人である。これだけ網を張られていれば、ホテルに潜伏ということも難しい。実家とて警察はとっくに押さえているはずであるが、何故か、ここにいる気がした。
亘の両親は既に亡くなっていた。目的の家は、当時の純和風な建物から、近代的な建物に変わっていた。しかし、表札には瀬良田と書かれてある。生活感のない玄関口は、白々しいほど静まり返り、打ちっぱなしのコンクリートには自転車のタイヤ跡さえなかった。
インターホンを押しても応答はない。しかも、路地を曲がったあたりから、この家を注視する幾つもの『目』の存在を感じていた。やはり警察はすでに、ここをマークしているのだ。
だが、家は生きている。無人の家は、特に長い期間人が立ち入っていない家は、どんなに新しくても息吹を感じず、ただの箱としてそこにあるだけなのだ。だが、この家は生きている。人の営みがこの中にあることは、間違いない。
孔明は一旦家から離れ、近くの石神井公園へ向かった。
池の辺りの遊歩道を歩くと、途中、中洲の緑地に渡る小橋がある。そこを渡って小山状になっている中洲から、更に対岸へと小橋で渡り、緑地沿いの遊歩道を進む。暫く進むと野外ステージがあり、無人の白タイルのステージを見つめるようにしてぼんやりとベンチに腰を下ろす男を見つけた。
「瀬良田、先輩」
疲れ果てたようにビール缶を手にして項垂れていたのは、高校時代の孔明が憧れた剣道部のエースの、変わり果てた姿であった。いつも洒落たブランド物に袖を通し、身だしなみには気を使っていたはずの男は、上下スウェットに無精髭と、くたびれた中年男のそれであった。
「コウ、か……。そっか。志信、捕まったのか」
「いや、まだ……何をしているんです」
亘は濁った目を孔明に向けた。そして眩しそうに目を細めた。
「良い男だな、お前は本当に……昔と変わらないが、今の方が色気がある」
無表情なまま、孔明は肯定も否定もしなかった。
「ポーカーフェイスで、何をやっても一番で。おまえこそがあの義理の親父さんの後を継ぐとばかり思っていたが……弟にずっと遠慮していただろ、あの家を出ようとしていただろ……分かってる、おまえはあの弟から逃げたくて、俺を抱いたんだ」
亘がビール缶を叩きつけて立ち上がった。地面で跳ね返ったビールから雫が飛び散り、孔明の顔にも跳ねた。その孔明の頰に着いたビールの雫を、亘が舐め取った。
咄嗟の事に避けることもできず、孔明はもがくように亘の腕を振りほどいた。しかし亘は執拗に孔明を抱きしめて唇を重ねようとした。酒の臭いが孔明の鼻孔を不愉快に刺激した。
「やめてください」
怒りすら露わにせず、孔明は静かに亘を突き放した。
「里見八犬伝の話を聞かせてくれたあの時の先輩は、あなたとは別人です」
ここはあの南総里見八犬伝にも登場する豊嶋氏の居城、石神井城の跡地だと、何度も2人でここを歩きながら語り合った。逞しく、強く、だがどこか儚げな亘の背中を見つめながら、熱っぽく語るその声を聞いている時間が楽しかった。だから、亘に求められた時、孔明は狼狽えながらも拒まなかった。
「古典教師なんだってな、おまえ。志信から聞いてるよ。隙がなくて、鉄仮面みたいで、その癖変に色気があるって……志信も大概だよな。どうしようもねェよ……でも、そうしたのは俺なんだ」
「何があったんです」
亘の両肩を支えるようにして、孔明は足元の覚束ぬ彼をベンチに座らせた。迷子の猫のような情けない目を向けて見上げてくる亘が、キスをせがんだ。が、孔明は微動だにしない。
「あの頃のお前は今よりずっと可愛気があったよ。いや、本当に眩しかった……おまえを引きずり込んで俺を抱かせて、ああ、これでずっと一緒にいられるって、俺だけのものにできるって、確信していた」
ただひたすら憧憬を持って後をついていた孔明を、亘は性の対象として見ていた。引退試合の後、亘はこの遊歩道で気持ちを孔明に告げ、孔明の心を確かめるまでもなく唇を奪った。そして戸惑う孔明の手を取り、自分の体へと誘ったのだ。ぎこちなく、何でそうなっているのか解らぬまま抱いているかのような孔明の愛撫を盾にとって、何度も自分の体を押し付けたのは亘の方だった。孔明の体だけを求めるかのように、語り合うことも、共に何ということのない時間を過ごすこともなく、ただ虚しく体を繋げるだけの関係が続いた。
卒業間際、拒んだのは孔明の方だった。力づくで押し退けたのだ。いつものように、あの実家の部屋で孔明を誘おうとしたら、孔明は泣きながら亘を突き飛ばしたのだ。もう、許してくれと。
「ずっと、おまえとの事が忘れられなかった……実はさ、姉貴が死んだのは俺のせい。義兄を誑かして2人で寝ているところを姉貴に見られた。いや、見せたんだ。姉貴は義兄を助手席に乗せて、車で海にダイブして死んだ。志信はそれを知りながら、俺の養子になった……俺を一生脅し続けて飼い殺しにするためだ。今回の事件も、俺は全て奴の言いなりに会社の名義を貸し、倉庫を貸し、あいつが『子供』だからできないことを全部やらされた。下手に頭が良くて、恐ろしいよ、あいつ」
こんな矮小なやつだったのかと、孔明は鼻白む思いで亘を見下ろしていた。
「もう少し、骨のある男だと思っていました。あの頃の貴方は本当に無敵で、私の憧れだった。貴方を抱いたのは、決して弟から逃げるためでも、貴方に引き摺られたからでもない」
「コウ……」
亘が孔明の頰に触れようと伸ばした手を、パシリと払いのける者がいた。
「汚い手で兄に触れるな」
思い切り払いのけられた拍子に、亘は無様に地面に転がった。前髪を払うようにして見上げると、そこにはスーツ姿で怒りと猛烈な艶気を放つ美貌の男が孔明を庇うようにして立っていた。
「鸞ちゃん……か」
「お久しぶりです」
「見違えたよ、あの女の子みたいだった鸞ちゃんが……へえん、あの頃より綺麗になって。何、孔明を俺から取り返しに来た? ハハ、言わば俺、コウのご内証の方、だもんな」
ご内証の方……やんごとなき身分の若君が、初めての褥を経験するときに、それを誘い導く役目を務める者を指す。言わば、孔明の初めての男、ということである。
「ご内証の方って、切腹するんじゃなかった? 」
孔明を背に匿うようにして、鸞は唇の端を上げた。ゾッとするほどの色気が陽炎のように鸞の五体を覆った。
「あんた、兄に振られたせいで家族を壊したようなこと言ってるけど、兄の純な心を無視して無理強いしたのはあんたでしょ。僕が何も知らないとでも思ってた? 」
「よせ、鸞」
肩に触れて制止を促す孔明の手を、鸞は肩を回すようにして解いた。その目尻は朱に染まり、怒りを孕んでいるのだが、孔明に向けた背中からは、愛嫵を求め匂い立つような熱が、ゆらゆらと立ち昇っている。
「俺はただコウと、繋がりたかっただけなんだ」
「兄はもっと、あんたと語り合ったり……何より心を通わせたかったんだよ。高校生の頃の兄って、本当に格好良かったし、抱かれたかったのもわかるけど……兄をアクセサリー代わりにして連れ回して体だけ味わって、無垢で真っ直ぐな兄の心を傷つけたのはあんたの方なんだよ。ま、僕が癒すけどね、これからも、ずうっと」
鸞が後ろ手に孔明の手を握りしめた。孔明も、優しく握り返した。
「よく言うよ、ネンネの鸞ちゃん……ってわけでもないか。その艶、誰かさんにもう、抱かれてるな」
「ええ。愛があって抱かれるから、死んでも良いくらい満ち足りてる」
「嘘だな。だってこいつ、下手じゃね? いつもオドオド腰が引けてたぜ。俺が導いてやんないと、勃ちもしねぇ」
孔明の手は、何の変化もない。亘の妄言には何の威力もない、そう鸞に伝えている。何の未練もない、と。
「ええ、あんた可哀想ぉ。僕なんて今、兄の指遣い思い出すだけで芯が熱くなるけどぉ? 」
「強がるなよ。男慣れした抱き方に、本当は嫉妬しながら哭いたんだろ、鸞ちゃん」
「嫉妬ぉ? それどころか、兄にテクニック教えてくれた人に感謝ぁ。おかげで僕は満たされちゃって大変だもぉん」
顎をスッとあげて、鸞は指を咥えるようにして挑発的に亘を見下ろし、悶えるような吐息を吹きかけた。睫毛に灯る圧倒的な色香に、思わず亘が視線を逸らした。
「あんたのは、蚊に刺された程度の、カビ臭い昔の話。引き摺る価値すらない」
遊歩道の対岸から、自宅の奥に隠れていた志信を確保したと叫ぶ声が聞こえてきた。
3人の元にも、いかにも刑事と思われる男たちが駆け寄ってきた。
「桔梗原係長、志信を確保。瀬良田の個人輸入代行会社名義の倉庫からは、ドラッグに使用したオキシトシンと、生成器具、カプセルなどを押収。自宅のPCからもフィリピンマフィアとのメールの記録や、販売ルートのリストを押収しました。こちらは四谷署で引き取っています」
成果を報告する六本木署の刑事達に、警官の顔に戻っていた鸞は労うような笑顔を向けた。年若い刑事が1人、その残り香のように漂ったままの艶気に当てられ、鼻血を出した。ペアの刑事が慌ててティッシュで拭いながら報告を続けた。
「霧生課長から、こちらの現場は木内係長に仕切らせろと言われましたが……」
倉庫とデータは四谷署が取ったからだな……そう判断し、鸞はニッコリと頷いた。
「そのようにお願いします。木内係長に、瀬良田親子の身柄はお任せしますと伝えてください」
「宜しいんですか」
「良いも何も、然るべく」
ベテランの捜査員が逮捕状を示して罪状を読み上げ、廃人のように座り込む亘を無理やり立ち上がらせて連行した。歩き出してすぐ、亘はもがいて孔明を振り向いたが、孔明の姿など拝ませるものかとばかり、鸞が立ち塞がって亘の濁った視線から兄を守った。
孔明は、無様に連行されていく亘の背中が小さくなると同時に、青春の淡い思い出も遠くに霞んで消えていくのを感じていた。未練も、悔恨もなく、ただ、消えゆくそれを、見送っていた。
「鸞」
「なに」
「怒ったか」
「……30分」
「え」
「30分なら、道を間違えたせいにできる」
背中から腰に手を回されたまま、鸞は肩越しに背後の男に囁いた。
「抱いて……それで許してあげる」
孔明は、鸞の肩に顔を埋めた。




