真夜中の訪問者
湯船に浸かると自分が思っていたより疲れていたことを実感した。
――ぽちゃん
重く感じる体を休めながら、あまりにたくさんの事があり過ぎた一日を振り返っていると音とともに小さく水が跳ねた。
しばらくした後、それが水滴でなく涙であった事に気付いた。
喜び、希望、不安、悲しみ、恐怖。全ての感情が入り交じって流れた涙がどれに当たるのかはわからなかった。
クロウとの婚約が破棄されたあの日から、ノミンシナが手をかけなくても私は既にほとんど人形の様だったのかもしれない。今朝クロウに会えるまで悲しみと恐怖しか私にはなかったのに、その感情さえ人事のようにしか向き合って来なかった。向き合えないのが分かっているから無意識に遮断していたのだと今理解する。
クロウに会って二人の未来へ続く道があるのだとしった。希望が生まれてクロウと一緒にその道を行ける喜びも生まれた。そしてその分、不安や悲しみと恐怖を感じた。自身の選択が大切な人達に与える影響、闇に飲まれかねない状況にあるクロウの傍に居られない悲しみ、前線の配属によりクロウを失ってしまうかもしれない恐怖。
全部がごちゃ混ぜで考えなければならないことがたくさんあるのに、思考が働かなかった。
浴槽の縁に頭をあずけ目を瞑る。心が自然と落ち着くまで、揺れ動くままに任せた。
◇
心配して様子を見に来たジーンにもう少しだけとお願いして温かいお湯を足してもらい、感情がきちんと制御できることを確認する。
――クロウとの未来を諦める選択はない。
ただその道は自分達の生命の危険と大切な人達への負担を強いる。だから、悲しみや恐怖から目を逸らしてはならない。どんな状況におかれても最善な道を選べるようにするためには人形のままではいられないし、だからといって感情を制御できなくては意味が無い。
◇
部屋に戻ると得られた情報を整理しながら自分がすべきことを明確にしていく。
自分がいったい何に巻き込まれているのかすら分からないまま集めてきた情報は雑多だ。
……殿下の教育の為に調べたショモナー領の収入源は結局明らかにならないままだった。ということならば真っ当でない方法での収入があったのだろう。先代の死によって困窮したショモナー家は秘匿していたその収入源も先代の死によって隠せなくなったのだろうか。
クルライもアイリーンも秘密を知ると隠して置ける性格には見えない。かといって家の罪を内部告発し正そうとする性根も持ち合わせているようには思えない。尾行をするような人達なのだから。
今日、クロウは任務で二人に対峙したのだろうか、あの表情のままに……
そう思いを馳せた時、窓をノックする音が聞こえた、次いで度々耳にしてきた了承を求める声が聞こえる。
「フェイ……その、開けてくれない?」
任務後になんらかの形で連絡をくれることは予想していたが、本人が現れるとは思わなかった。でも本当は少し期待していたのかもしれない……
聞こえてきた声が前と変わらないことに任務内容がそれほどでもなかったのだろうと安心してカーテンを開いた。
部屋の明かりで照らされたクロウの外套にかすかに散らばる赤い跡が目に付き、窓を開くと外套を掴み間近に見つめる。血痕であることには間違いなかった。
「怪我をしているの!?」
「え?」
「すぐにジーンを呼ぶわ」
クロウのいつもの声に安心してしまっていた自分が情けなかった。血を伴うような今日のような任務がすでにクロウには日常であるのだと思い描けなかった自分が。
ともかくも治療をとベルを取りに走る。
「大丈夫だよ。俺のじゃないから」
その返事に足を止める。クロウのじゃない……それならば対峙した相手の者であるということだ。その相手が誰でどうなったかを想像できても、クロウに怪我がないことに安堵している自分がいた。
「そう……クロウは怪我をしてないのね?」
「うん。渡したい物があって来たんだ」
クロウがポケットからハンカチに包まれたなにかを取り出し私の手に乗せた。
「中は見る必要ないよ。カートイット伯爵に渡してくれたらそれでいい」
「……見ても問題はないの?」
「あぁ、いいよ」
ショモナー家の事で急な対応に当たる父が必要としている物で、返り血を浴びたクロウが手にできたもの。ハンカチの中のものが何であろうとそれを見ないでいることは、クロウだけに負担を強いて恐怖から目を背けることに他ならない。
息をひとつ吐き出すと、慎重に包みを開いた。
想像していたものが事実として目の前にあった。
「クロウ……このピンキーリングはショモナー伯爵子息の物よね?」
「そうだよ」
「こっちはアイリーンの……」
二人はもうこの世にいないのだろう……そしてその事に私は心を痛めることはしない。
彼らの死を示す証としてクロウが持ち帰ったものがガーネットの指輪であったことで、クロウに役立ちそうな情報を渡せる絶好の機会であることに思い当たる。
「クロウもガーネットのついたブローチをノミンシナ様に渡されたわよね?」
「あぁ、うん。貰ったね」
「以前ノミンシナ様にご招待頂いたお茶会で聞いたのだけれど、男女の区別なく彼女に想いを寄せる方々にガーネットの装飾を持たせているみたいなの」
「へぇ……」
ノミンシナの名がでると途端にクロウの態度が不穏なものになる。だからといって話すのを止める選択肢はないのだけれど。
「それでハオスワタが関わる方でガーネットを使った宝飾品を作った方がいるか調べてみたの。私が知る限りではクロウのブローチ、ショモナー兄妹のピンキーリング、ピンジット伯爵子息の指輪、あとは騎士団に在籍する四名の方々かしら。あと、クロウの名義でシャーレッツオにも請求が行っていたわ」
「あぁ、それはサーヤから聞いてるよ。贈り物だって渡されたのに請求がきたって」
「え?それじゃあ請求を取り下げさせたほうが良いわよね?」
「その必要はないよ。支払いは済んでるはずだし。とりあえずその騎士の特徴を教えて貰えるかな?」
「ここに騎士団の方々の特徴が書いてあるわ」
求められた情報を纏めた書類をクロウに渡し、ノミンシナの手が領地をでることのないサーヤにも伸びていることに警戒心を強める。
クロウは流れるような速さで目を通していき、読み終えると小さく舌打ちをした。私が調べられる範囲のものなどやはりあまり役に立たないのかもしれない。
「情報が足りなかったかしら」
「そうじゃないんだ。凄く有難い情報だよ」
そう言ったまま黙り込み何かを思案するクロウに、他にも何か私しか知らないようなもので役立ちそうな情報がないかを考える。
「あ……」
私しか知らない情報にひとつ思い当たり、クロウに伝える。
「ん?」
「もう一人居たわ。紅い口紅が特徴的な誰かの愛妾と思われる庶民の女性なのだけれど……名前は分からないの。彼女はノミンシナ様から、何方かとお揃いだというピアスを贈られていて高位貴族の中に親密な方がいるということしか分からなかったの。でも、店内でノミンシナ様が名前を呼ぼうとしなかったということは庶民の女性で間違いないと思うわ」
「庶民か」
高位貴族は数が限られ、公爵家、シャーレッツオ、カートイット、マルチー、ショモナーと対象から外れる家もすでにいくつかある。ピンジットに関しても全身ガーネットで飾り立てたカルデンを考えるとピアスだけが対になるとはならないだろう。
対象となる人物が侯爵以上だと考えた場合、その者もノミンシナに心酔しているのならば驚異であるため警戒すべきだが、王族に次ぐ権力を持つ公爵家がその対象にはならないことには安心を覚える。
「やっぱりフェイは頼りになるね。高価な宝石を身に付けていても違和感のない庶民となると、かなり限られるだろうね……」
対象となる男性にばかり気を取られていたが、クロウは女性に注目したようだ。私だけではたどり着けなかった人物にもクロウならたどり着けるだろう。そう思うと話せたこと、それは良かったのだが……
「顔が怖いわ!」
「なっ」
「何がどうなっているのか詳しく話してほしいとは言わないわ!それがクロウのお仕事だものね?でも……でも!心優しい貴方まで消さないで」
「ごめん」
クロウの心を守るために調べてきたのであって、私が得た情報によってさらにクロウが闇に飲み込まれるような事態を望んでいる訳ではない。今後、離れた状態でより過酷な環境に身を置くクロウが闇に引き込まれることなく踏みとどまれるよう、何か手を打たなければならない。
「その、嫌いにならないで」
「……なるわ」
「えっ!なるの!?」
「なるもの!」
不安を打ち消す言葉が返ってくると期待しながらクロウが投げかけた言葉に期待を裏切る言葉を返す。
「最近のクロウは隠し事ばかりだもの!仕事だと言うのは理解しているわ。でも、私だって無関係じゃないのでしょう!?突然婚約破棄されて、突然ノミンシナ様からあんな対応されて、ただでさえ訳が分からなかったのにいつの間にかクロウが悪者扱いされていて、一人で苦しんで私の知らない顔をするのに……私は蚊帳の外だわ………」
「……その……」
「クロウが戻ってきてくれるのなら、いつまでだって待つわ。舞踏会の前にそう話したじゃない!乗り越えるのは二人でじゃないの?私は守られて待つだけなの?私はクロウの為に何かをすることは許されないの?」
クロウに言ったことは紛れもなく本心であり、クロウが闇に飛び込めば私も迷わず一緒に飛び込むのだと理解して欲しかった。そしてそれがクロウの楔になってくれたら……
「……クロウは私に人形みたく黙って飾られていろと言うの?私じゃクロウの助けにはならないの?役不足だと言うの?」
もう今までのように痛みに鈍感に過ごしクロウが壊れていくのを何も出来ず見続けるのは耐えられなかった。クロウが私の助けを全く必要としていなくても。クロウが隠そうとするなら自ら調べるだけだ。
「フェイには……言えないことも確かにあって……言えることもあるけど……でも、フェイがそれを聞いたら苦しむことは分かりきってて、だから言いたくなくて」
「クロウが一人で苦しむよりはマシだわ」
私の肩におでこを付けもたれ掛かるように抱きつき降伏した様子を見せながらも、未だ口にすることを躊躇うクロウの背中に手を回し覚悟はできているのだと伝える。
「ショモナーは、多くの重罪を犯していた。そこ自体にはフェイやカートイットは関係していないけど……」
話し始めてなお言い淀む先を背を撫でて促す。
「王室……いや、王妃がショモナーの犯した罪に関わっているかもしれない。そこには教会か主教個人も絡んでいるはずだ」
クロウの口から出たものは不審に思ってはいてもやはり受け入れ難い事実だった。
王妃様と主教様は重罪に関わっている可能性が高い……それは国に対する裏切りに他ならないのだから。




