第8話:魔法師の仕事
母親に頼まれたお使いの帰り道。近所で鶏を飼っている家から、せっかく新鮮な卵をもらってきたというのに。
「きゃっ!」
衝撃にあっと思った時には遅かった。後ろからシエラにぶつかってきた若者は振り返りもせず駆けていく。咄嗟に袋を抱えて全滅は免れたものの、数個が転げ落ちて割れてしまった。押し潰さなかったのは幸いだが、卵まみれの地面を前に猛烈に悲しい気持ちに襲われる。
と同時に憤慨もしながら、卵液の被害を免れて一枚の小さな紙片が落ちているのを見つけた――中等学校の学生証だ。かつて自分も持っていたから見慣れたものではある。先の若者がぶつかった拍子に落としたに違いない。シエラの家から学校は徒歩圏内だったから、距離的にも自警団へ預けるよりは自分で届ける方が早そうだった。
「お母さん、ただいま」
食堂の裏手から入れば、鍋をかき混ぜている母親が出迎えてくれる。シエラは玉ねぎをたっぷりのバターで炒めたこの香りが大好きだ。
「お帰りなさい。お使いありがとう」
「でもごめんなさい、何個かだめにしてしまったわ。途中で人とぶつかって」
「あら、大丈夫? あなたに怪我がないなら良かった」
紙袋を調理台に載せる。怪我もなく服も汚れていないことを確認し、母は娘を慰めるように小さく肩をすくめた。
「落とした卵はもったいないけど、きっと大地の栄養になってくれるわよ」
「そうね、そうだったらいいな」
明るい言葉にシエラも笑顔を見せる。
「お母さん、ちょっと出掛けてきても良い? 落とし物を拾ったの」
「あまり遅くならないようにね。先週また国境近くに魔獣が出たって話だし」
魔獣は魔素によって突然変異した獣のことだ。国境の森によく出没するのだと食堂の客達の噂で聞く。しかしいくら田舎とはいえシエラの住む町から遥かに離れているし、近隣の誰も実物を見たことはない。つまり魔獣の話は子供に対する脅し文句として使われるのが常だった。もうそんな年齢ではないとシエラは頬を膨らませる。
「平気よ、暗くなる前に戻るから」
「怖いのは魔獣だけじゃなくて人間もよ。気を付けて行って来なさいね」
「はあい」
そのままの足で店を出、向こうの空の夕陽に目を細める。ちょうど大半の学生が下校する時刻かもしれない。毎日の通学路だったから慣れた道だ。
程無くして校門に辿り着く。まだ事務局が閉まっていないことを願いながら、学外の人間はどこから入ればいいのだったか、と辺りを見回していると。
「シエラ?」
思いがけない声にシエラは心底驚いた。
「こんなところで何してる」
「アーレイン!」
いつものように軽装かつ手ぶらで。ラダンと一緒に隣町に暮らしていると聞いたし、散歩だとか偶然通り掛かったとかでは無さそうな様子。歩み寄ってくる長身を見上げる。
「学生証を拾ったから届けに来たの。あなたこそどうして?」
「仕事だ」
「仕事? 魔法師の?」
更に驚くと彼は校舎を降り仰ぐ。その表情はまるきり変わることもなく淡々と。
「魔道具の違法取引が行われている、と」
「そんな……ここは学校よ?」
確かに自警団の手に負えないような――すなわち魔法絡みの事件に関しては、解決のため魔法師が出てくると聞いたことはある。だが仮にも公認魔法師がこんな地方の学校に? 信じられない気持ちで聞き返すも、再度こちらを見下ろした黄金は全く揺らぐこともない。
「法を破る奴は破る。どんな立場でも年齢でもな」
意外なことに彼は昔から法や規律に厳しかった。タニアだった頃、生真面目に契約書へとサインさせられたことも覚えている。悪魔はそういうものなのかとは思ったが、訊けばまた下等な生物と一緒にするなと言われるだろうから、直接疑問をぶつけたことはなかった。
「それって、わたしが魔法を教えてもらっているのは良いの?」
「店で売られている魔道具を使うのと同じことだ。それに、魔法師が監督すれば問題はないとされている」
言われてみればその通りか。魔道具屋の店主や製造者には免状が必要だが、火を起こしたり植物の成長を促したりと、生活で用いるための魔道具は誰でも入手することができている。
「魔道具も個人で使う分には製造許可は不要らしいが。魔法を他人に向けて使うこと、許可なく金銭を得ること。魔法師以外が禁じられているのは大きくこの二つだ」
「そっか、素人が作った魔法で他の人に何かがあったら責任が取れないから……」
料理とて刃物も火も使う。それが一緒くたに危険だと取り締まられないのと同じように、適切な指導を受けさえすれば魔法の普段使いは許容されているのだろう。期待よりずっと多くを教えてくれた青年は、やはり法を遵守することに厳しいのかもしれなかった。
「じきに日が沈む。用が済んだのなら早く帰った方が良い」
「え、ええ。いま来たところだから」
用事を果たしていないのはもちろんのこと、思いがけず会えたことが嬉しくて。すぐに帰されては堪らないと焦るも素っ気なくあしらわれたのみ。
ちらほらとしか残っている学生はいないが、シエラはまだしも、明らかに成人した男は浮いていた。しかも向こうで女学生らがこそこそと会話を交わしている通り……彼は見た目が良いせいで殊更に目立つのだ、昔から。何を無防備に一人でふらふら来たのかと奇妙な腹立たしさが湧きそうになる。シエラはこの魔法師の何でもないというのに。
「アーレイン。この学校へは何回か?」
「いや」
だがあの学生達はきっと彼の名も知らないだろう。気持ちから目を逸らすために問えば返答は短い。少しでも役に立ちたかった。
「この町のことなら俺かジジイに話が来るが、実際のところお前の家の近所以外はよく知らない」
「ここね、校舎の裏手に使われない農具をしまっている倉庫があるの。そこなら滅多に人は来ないと思う」
その場所は素行の良くない生徒達の溜まり場として有名だった。シエラ自身はあまり近付いたことはなかったが、在学中に噂を聞いたことが何度かある。
「まあ、怪しいと言えばそうだろうな」
別に彼には算段もなかったのかもしれない。大人しく頷かれ拍子抜けする。
「わたし、ここの生徒だったのよ。案内するわ」
ほんの少しだけ得意気な声になってしまったのは仕方がない。せっかくの機会だから魔法師の仕事を見てみたかったのも否定はできなかった。