第7話:教師と雷
約束通り、嫌な顔ひとつせず彼は再び家を訪れた。
「これがジジイの要求する『対価』なら断るのは得策ではないからな」
「そう……でもあなたとこうして話ができて、少なくともわたしは嬉しいわ」
シエラの言葉には軽く首を傾げたのみで、心を動かされた風も特段ない。単に決まりごとを守るだけのように。
鞄を持ってきたのは初日だけ。本は前回シエラの家に置いていたし目立つ荷物は持ち歩いておらず、腰紐に下げた小さな革袋に必要最低限の持ち物だけを入れているらしい。前は治療道具が出てきたが、もしかすると魔法で荷物の容積を小さくしているだけで他にも色々入っているのかも? 想像するとわくわくした。
先日どうにか言い繕いはしたものの、前回の件があってからレビは一層アーレインへの警戒心を強めたようで、一挙一動を見逃すまいと唇を引き結んでいる。それを気に留めるような客人でないことが尚更、シエラにとっては頭痛の種となりそうだ。何せ口は達者だがレビはまだ幼い。相手をされないのがいちばん堪えるに決まっている。
「先に言っておくが」
美しい魔法師は、何も気に留めることなく自身の前に用意された羊皮紙を広げながら。
「俺はそもそも机上で理論を詰め込み魔法を習得した訳ではない。魔法は文字や記号を知らなくとも扱える」
「それってつまり、感覚で出来てしまったということ……?」
「そうだ」
あっさりと首肯する。悪魔がどうして魔法を覚えるかなど想像もつかないが、少なくとも仲良く教室で勉強などしないだろう。それなりに納得はできる話だが、事情を知らないレビが隣で体を強張らせたのがわかった。
「理屈を解してはいるが端から体で覚えたに過ぎない。だから言葉で伝えるのは不慣れだ。わからないことは訊け、それが互いのためになる」
家庭教師としては当然だが元悪魔にしてはやけに配慮した言い方をするものだから、飲み下すのにシエラは数度瞬きをする間を要した。
「……少し驚いたわ」
「どんな疑問でも軽んじれば却って遠回りになる。お前はよく物を尋ねるから知っていると思ったが」
皮肉ということか。確かにタニアもアーレインに色々なことを質問した。彼が、答えてくれるから。そんな赤面も意に介さず彼はペンをインクに浸す。
「魔法を使うにあたっての最初の難関は、魔素の気配を感じられるかどうかだ。魔素は謂わば魔法の源」
大地に宿る精霊の力だとも言われているが、詳しいことは明らかにされていない。確かなのは、それらを感じられる人間とまるっきり気配に気付かない人間の二種類が存在すること。シエラは前者で、レビは後者だった。恐らくシエラの体質は少なからず悪魔が魂に干渉したことに依るのだろう……と、自分では思っている。魔素を感じられなければそもそも魔法は扱うことが出来ない。
「魔素を『法』として調整し、方向性を与えてやる。算術や因果関係のようなものだな。『法』を成すための筋道を理解すればいい。過程や原因があって事象が発生する」
簡単な図を描いてみせる。魔法の基礎理論だ、授業で見た記憶が朧気にある。
「あとは単一で扱うなり組み合わせて応用するなり、そうして種々の魔法が生まれる」
シエラ達の反応を見て足りないと思ったのだろう。言葉を選びながら付け足す。
「繊細な作業ではあるから、誤りなく執り行うのは恐らくそれなりに難しい。だから一助として呪文を唱えることは有用だ。兵士達が士気を上げようと声を出すことにも似ている」
「あの……アーレイン様って外国の出身でしたか?」
不思議そうな声を上げたレビを見る目にも特別な感情を見てとることはできない。
「何か気になるか」
「あ、いえ。まるで戦争を見てきたかのように仰るので……」
「ああ……まあ、そんなところだ」
ペン先を洗いながら静かに応じる。踏み込むことは憚られたのか、それきり質問が重ねられることはなかった。
「習ったことがあるのなら分かるとは思うが、念のため基礎から教えよう」
まずは初級魔法からというわけだ。アーレインはおもむろに片手の平を上に向け二人の前に差し出す。
「例えば火を顕現させる魔法」
言うや否や、二組の目が見つめる前で小さな炎が生まれる。手と炎との間にうっすらと光る青色は魔法特有の光。それ自体は何ら妙ではない。学校で教師がやってみせたのと同じだ、ただ。
「ま、待って。詠唱しないの?」
シエラは慌てて制止をかけた。先にも、唱えようが唱えまいがどちらでも良いような言い方をしたから気になってはいたが……
「その方がわかりやすければしてもいいが。呪文ならここに書いてある通りだ」
空いた側の手で本の記述を指差したのみ。どうにも頭が痛くなる。天才はこれだから!
「ジジイも詠唱なんかしていないぞ」
「それは大魔法師様だからよ……!」
魔法を発動するには呪文を唱えなければならないのが常識だ。鍛練を積めば省略できると聞いたことはあるが、この程度の初級魔法でもかなり難しいはず。意識して理論を、彼の言うところの因果というものを言の葉で整えてやるのが普通なのだ。他の魔法師が魔法を使う場面に遭遇したことはあれど、無詠唱など見たことがない。こんな、まるで息をするかのように。
当の本人は驕った風も気負いもなく。
「この魔法、試しにやってみるか」
などと続けてきた。
「術者自身は熱くないから恐がらなくていい。難しければ手袋を貸してやる」
「そうね、あの、呪文を唱えても?」
「好きにしろ。……《嘶け、箒星》、か。火の魔法らしい文言だな」
「ええ……?」
眼前の教師は詠唱しないどころか、初めてその呪文を読んだらしかった。
その後も彼は幾つか簡易な魔法を実践して見せ、逐一シエラのためだけに呪文を引いては練習法を教えてくれる。
「上級や大魔法にあたるものを教える気はない。灯りや竈の火にはこれらで充分だろう」
魔法にも段階があり、大概の場合は難度と力は比例する。懸命に講義の内容を書き留めるシエラ達を横目に、使わない本を横へと退けながら。
「他者を傷付ける術など覚える必要もない」
事も無げに告げられた言葉に、レビが一瞬だけ手を止めたのが見えた。
「あなたが一番得意なのはどんな魔法なの?」
一段落し、休憩の最中に訊いてみる。気になることがあればと言ったから。彼は口許に手を当て目線を下に流す。
「考えたこともないが……強いて言えば使い慣れているのは、火や雷を扱うものか」
嘘ではないのだろう。戦場での光景を思い出す。青の奔流と凄まじい雷鳴、一面の火の海――
「えっ、すごいです! 雷の魔法なんて見たことない」
レビが目を輝かせる。先の種火のようなものであれば炊事で使うような機会もあろうが、雷の魔法に関しては日常での出番はほとんどない。そもそも魔法の主流とされているのは四大属性――火、水、風、地の魔法、加えて光魔法と闇魔法が存在し、それ以外は扱うことのできる人間自体が極めて少ないと聞く。シエラが趣味で読んできた書物にもあまり記載はなかったように思う。だから例えば雷もそうだろうし、魔法師が移動のためによく使う転移魔法もいわゆる派生とされており、厳密にはどの属性にも分類されないはずだ。
「特別なことは何も。ここで見せても良いが、せっかく手入れされた庭を台無しにする」
「そ、そうですか……」
アーレインの言は尤もだった。知る限り、彼が扱う雷は一撃でも大地を抉るほど。ローズやシエラの母親が丹精込めて世話してきた花々を粗末に扱う訳にもいかない。少年があからさまにがっかりしたのを見、小さく嘆息を漏らした彼は。
「……魔法は伝播する性質も持つ。特に顕著なのが水や雷を扱う法だ。――写本師」
レビが顔をあげる。何を思ったか魔法師が指差す先には、蔓植物に添えた鉄の支柱がある。注意が向いたのを確認しそのまま指先で小さく空を切れば、
「わ?!」
頂点にて青白い一瞬の光と猟銃のような破裂音。驚いた鳥達が一斉に飛び立った。
「だからこうして、触れずとも発動することができる」
「……び、びっくりしたあ……」
呆然としながらも目は輝いていて。わざわざ少年のために威力を調整して見せてくれたに違いない。本当に『対価』としてラダンの意に従っているだけならここまでする必要はないはずだ。シエラは感謝を込めて視線を遣ったが、彼は何を思ってか、またしても目を逸らしてしまうのだった。