第6話:真相
ベルトに下げた革袋から、次々に並べられる手当ての道具達。本来はインクのついたペン先を洗うために用意していた水差しを使い、傷口をきれいに流すことから始まり。軟膏を塗って仕上げには器用に包帯を巻いていく。
「ありがとう……」
思わず手際に見惚れながら礼を述べれば。
「慣れているのね。お医者様みたい」
「医療を得意とする魔法師もいるが、一般人からすれば区別はない。簡単なものは覚えておけとジジイに言われた。軍に帯同することもあるしな」
ジジイ……とはラダンのことだろうか。父と同年代なら四十そこそこ、ジジイと言うほどの年齢ではないのだが。
「あの頃も思っていたけれど、何というか……人間の生活に詳しいわよね」
「見ていれば大体わかる」
「召喚された時に?」
「喚ばれずとも。お前達も見世物小屋へは行くだろう」
悪魔からすれば人間は観察対象なのか。だとしたら、今もどこかで自分達を眺める悪魔が存在するのだろうか?
あの頃、という言葉に応じてくれただけでシエラは嬉しかった。共有する思い出があるということだからだ、彼がそれをどう思っているかはわからないにしても。かつて悪魔だった男は顔も上げずに作業を続けている。
「本当にその……あなたは人間、なの?」
「そうだ。お前との契約を果たしたのが最後」
では聞き間違いかと思ったあの言葉は……
「……覚えているわ。戦争が終わって、生まれた家に帰してくれたこと、最期まで傍に居てくれたこと」
もはや命を奪うだけなのだから義理立ても不要だろうに、故郷に帰りたいという願いまで悪魔は聞いてくれた。大した思い入れもなかったが、それでも出来るなら育った家で最期を過ごしたい気がしたから。何をするでも話すでもなく、ただ眠るまで傍に。身寄りのない自分にとってはきっと最良の旅立ちだった。逃れ、歪められるものを覚悟とは言わない。契約するというのはそういうことだ。
そして最後の最後。旅立つ間際に一言だけ、悪魔は呟いたのだ――「もう一度世界を見せてやろうか」と。タニアは何と返したのだったか……だが今こうして生きているということは、否定の言葉を口にしたのではなかったのだろう。もし仮に悪魔が来世を無理強いしたのならそれこそ理由を知りたくなる話だ。
「……さっきのは契約じゃないのね」
血を舐められたことを思い出す。驚愕が大きすぎたこともあるが不思議と不快ではなかった。
「当然だ。……もし出来たとしても、お前とはもうしない」
目を合わせず道具をしまいながらの返事。シエラはずっと戸惑っていた。ラダンの言う通りまるきり愛想は無いが、仮に嫌悪する相手に対しこんな振る舞いをするだろうか。
「あなたはあの時、わたしに新たな人生をくれると言ったわ」
だからタニアはこうして生まれ変わった。聡い娘は思い至る。悪魔の力によるものだとしたら、その対価は誰が払った?
「あなたが悪魔でなくなったのは、わたしのせい……?」
「思い上がるな」
唸るように返し、青年はやっと顔をあげる。
「俺は、自らの意思で悪魔であることをやめた」
その突き放した言い方と冷たい表情は、再会して以来最も悪魔だった頃に近いもの。生まれ変わっても彼は誇り高く。
「珍しいが無い話でもない」
そしてきっと優しいまま。
「奪うばかりでなく、与えることが出来たならと……」
呟かれた言葉に絶句していると白皙を歪め「何でもない。忘れろ」と付け足される。
淡々と治療具を片付けていく様を見、機嫌を損ねたかと慌てて疑問を紡ぐ。
「ね、ねえ。あなたがこの時代に生きているのは偶然なの? あれから何十年……下手をしたらもっと経っているはずだわ」
当時は学校に通うどころではなかったから、国が、もしかすると大陸さえ違うことは察せられるが、歴史の授業を受けてもタニアがどの時代を生きていたのか判然としなかった。
質問攻めに遭うことは想定内だったのだろう。気乗りしないような素振りを見せつつも、彼は座り直して小さく息を吐く。レビには、少し申し訳ないが。
「……地上に降りたのは二年前になる。それまでは罰を受けていた」
「罰?」
「お前の転生とは関係ない。ただの後始末だ」
それはやはり悪魔でなくなることへの罰か。怯えが顔に出ていたか、静かに付け足される。
「何もなかった」
「え?」
「何も、音も光も。ただの暗闇で時を過ごすことが罰」
痛い思いをした訳ではないと語る。
「最初は世を呪いもしたが早々に飽きた。盤面を思い浮かべてチェスをしても独りでは続かない」
「……」
「それからヒトの身になったら何をしようか考えた。地上の生活はお前と経験したことしかほぼなかったから、想像できることも限られていたが」
辛いことに変わりはないだろうに彼は表情一つ変えずに続けた。
「年月を経た結果、こうして偶然にも同じ時代に生まれてしまった訳だ」
「そんなに、長く……」
「お前達とは時間の感覚が違う。魂に干渉すると思えば安い代償だろう」
気の遠くなる話だ。だが起伏こそ激しくはないものの彼にも感情がある。何かの本で読んだが、人間は本当に何もない場所に閉じ込められると早々に発狂してしまうらしい。目の前の青年が耐え抜いたことは、単に悪魔との感覚の違いだけが理由ではないはず。
「より高位の悪魔であれば自在に時代を選ぶことも出来ただろうが、俺ではせめてヒトの身に生ませるのが限界だった」
やはり彼が。アーレインという悪魔がタニアを転生させたことに違いはないらしい。
どれだけの位だったかを尋ねたことはなかったが、ひとりで国家間の争いを制圧するほどの力の持ち主がそれほど低級の悪魔とも思えない。これもシエラになってから読んだ本の記憶だが、並以下の悪魔は言葉を解することも人型をとることもないのだと書いてあった。どこまでが真実かは不明だが、アーレイン自身の振る舞いから判断するにそう遠い解釈でもないだろう。
「あの、何度伝えても足りないでしょうけど……感謝しているわ」
「忘れた訳ではないだろう。俺はお前を殺した」
「命をくれたのもあなたよ」
「シエラ」
彼は眉根を寄せてはいたが瞳に力はなく、その表情は不機嫌というより困惑に近い。
「ここまで聞いてまだ関わるつもりなのか。俺がお前を殺さなければ、わざわざヒトの身を繰り返すことはなかったのに」
頷く。きちんと、黄金を見返して。
「わたし、あなたに会いたかったもの。思い出すまで忘れていたから嘘に聞こえるかもしれないけど」
「……」
「それに、もっと生きたいと思ったのも本当よ。生きて、色んな経験をして……」
目を逸らし大きく息を吐き出されたところで口をつぐむ。アーレインはシエラの言葉を疑いはしなかったが、代わりに触れることもしなかった。
「……よもやこうして再会するとは思わなかったが。少なくとも」
首を巡らせ屋敷を見やる。豪邸などではないが家族で住むには十分な広さのある家。
「不自由のない暮らしが出来ているなら何よりだ」
シエラもつられて自分の家を見上げる。タニアだった頃とは全く違う。帰れば家族がいて、会話しながら食事をし、楽しかったことや辛かったことを話して、時には口論もして仲直りをして、一緒に出掛けたり買い物をしたり……タニアはひとりの悪魔としか出来なかったことばかりだ。やりたいことを出来る環境がある有り難みを改めて噛み締める。
「あなたは、今の生活は楽しい?」
試みに訊いてみると、少し考えた後で首肯される。
「そうでなければ過去の俺が赦さないだろう」
よかった、と返すのもどこか他人事すぎる気がして。訊ねておきながら曖昧な笑みを返す。
「他に、質問は」
「……いえ。充分よ」
「では今日は終いだ」
……本当は。彼は自分に会いたくなかったのかもしれないとシエラはずっと思っていた。だが結局怖くて最後まで訊くことはできずに。
アーレインはふと地面に転がっている少年を見下ろした。
「これをこのまま転がしておく訳にもいくまい。部屋まで運んでやる」
「あの、その……魔法のお話は?」
「また次回だな」
意外にも前向きな返答。約束を取り付けたことに喜んでいると、彼は目の前でレビの体を荷物のついでとでもいうようにひょいと抱き上げてみせた。あまり軽そうにやってのけるから思わずまじまじと見てしまう。大して筋力があるようには見えない……ラダンならばまだわかるのだが。
呆気にとられるシエラを振り返り、彼は涼しい顔で難題を投げてきた。
「代わりに。こいつが目を覚ましたら、適当に言い訳でもしておいてくれ」