第31話:呼び出し
さすがに前と同じように通い詰めるわけにもいかず、シエラがアーレインに会うのはあれからひと月近く経ってようやくだ。食堂の前で待ち構えていたリリィの姿に驚いたのが一昨日のこと。口に咥えた手紙――少し湿っていた――で呼び出され、またラダンの家を訪れる。
庭先で出迎えてくれた魔法師を見、シエラは思わずその場に立ち竦んだ。嬉しい気持ちも話したかったことも一瞬忘れそうになる。彼が……髪を切っていたから。
結わえていた尾がなくなっただけなのに昔の姿を思い出す。うなじの長さの髪、美しく金色に燃えた爬虫類のような獰猛な瞳。かつての彼は冷酷で誇り高く、他者のことは退屈そうに睥睨するばかりで決して寄せ付けない空気を纏っていた。今は悪魔ではない、傍らにはリリィだっている、わかっている。それでも。
「シエラ?」
怪訝そうに眉をひそめられた。それでも……繋がりの証だと思っていたのに。あのリボンを躊躇いなく切り落とされたことが悲しくて仕方がなかった。
だが、せっかく会えたのだから落ち込んでいてもどうしようもない。ううん、と首を振り何とか笑ってみせる。
「えっと……もしかしてわたし、何かしたかしら?」
「やましいことでもあるのか」
「ないわ。でも『先生』に呼び出される時って、あまり良くない話が多いのよ」
もちろん冗談のつもりだ、半分くらいは。屈み、リリィの頭を撫でる。あの一件以来すっかり触れることができるのが当たり前になっていた。主人の傍についていた獣はシエラを見上げ嬉しそうに尾を振る。
「……見せたいものがある」
何か言いたげな素振りを見せながらも、アーレインは踵を返すと目線でシエラを促した。リリィと共に大人しくついていくと、
「苗?」
「林檎の挿し木だ。転移魔法の目印用の」
庭の隅には枝が一本。魔石を取り出すと無造作に地面へ置く。
「目印? 自分のお家なのに?」
「お前が魔法を使うための、だ」
転移魔法を扱うのは魔法師ですら相当の修練が必要だと聞く。とんでもないことを言い出した横顔を見つめるも、彼は「今にわかる」とだけ言い苗木へと片手を翳した。
「《碧玉の煙よ、天を指せ》」
唱えられたのは石にまつわるものだから、と青い光を見ながら考える。珍しく無詠唱でないのはあまり得意ではないからだろうか。
「光魔法ではないのね」
「成長を促すのは光魔法が向いているが、根を張らせるのには地属性の方が具合がいい」
疑問には丁寧な返答がある。まあ、詠唱したとて不得意ではなくこれが普通なのだ。これから雪が降ろうという時期にもかかわらず、小さな枝はみるみるシエラと同じくらいの背丈に成長した。幹の中心には魔石が埋め込まれ、少しのことでは外れ落ちることもなさそうだ。相変わらず精緻な魔法には見惚れてしまう。
「話の前に……片付けることがあるな」
一仕事を終えるも魔法師は不機嫌そうに、ようやくシエラに向き直った。何を言われるかと肩を竦めれば眉間に皺が寄る。怒っている……のではない。どちらかというとこれはきっと、悩んでいる。
「ど、どうしたの?」
「そのまま返す。俺は何かしたか」
――ああ、なんてことだろう。
困惑の表情は機微に気付いた愛情の証拠。生まれ変わってすら変わらなかった心がこれっぽっちのことで揺らぐはずもないのだ。もはやシエラの不安は解消したに等しい。勝手に失望していたのが馬鹿らしくなり、思わず正直に口を開いてしまう。
「あの……すごく下らないことよ? 笑われてしまうかも」
「話せ。下らないかどうかは俺が決める」
有無を言わせぬ声音に観念する他ない。笑われたらそれはそれ、平和で良かったと思えばいい。
「リボン……」
「リボン?」
「髪、切ったでしょう? 似合うと思うわ、昔を思い出すし……でも、わがままなのだけど……」
言い終える前に返される大きなため息。顔を熱くしながら上目で伺い見れば、先の強気が嘘かのようにふいと目を逸らされる。
「呆れた?」
耳飾りが数度揺れる。
「いいや。些末な出来事でもお前が気を揉むのだと思えば、なんというか……愛おしいと」
気まずい沈黙の中、聞こえるのは犬の息遣いだけ。今ばかりはその行儀の良さが少し悩ましかった。
「あの紐のことだったな。その……お前の匂いが薄くなれば、また探す時に困るから」
咳払いと共に言い募るも、リリィがやっと不服そうに低く短く吠えた。そんなことでは見失わないとでも言うように。
「そ、そう頻繁に迷子にはならないわよ」
本人の非難に後押しされたか、獣は更にアーレインへぐいぐいと鼻先を押し付ける。
「煩いぞリリィ」
霧の犬を手で押し退けようとする様は滑稽ではある。耳を赤くしているからなおのこと。思わずくすりと笑えば今度はアーレインが諦める番だった。
「……無用な心配をさせたくはなかったが」
言うと、懐からとても小さな皮の袋を取り出しシエラの手にのせる。
「開けていいの?」
紐を緩めてみると中にあのリボンが入っていた。が、よく見れば所々に黒い斑点模様がついている。
「この前の任務の最中、それに血をつけてしまった」
「大丈夫だったの? 怪我は――」
「大事ない。魔獣の血だ」
何重もの安堵に息をついた。贈り物ひとつをこれほど大切に扱う心を持つ彼が、血の流れる現場に出向くこともあるというのだ。本人が言うところの『無用な心配』なのかもしれないが。そっと仕舞うと袋の紐をもう一度絞めて、両手で祈るように包み込む。
「お守りになってくれたらいいな」
何の変哲もない髪飾りだが、どうか。
「あなたが強いのは知っているけど……危ない目に逢いませんように」
「シエラ」
熱の籠った声に顔を上げれば、美しい魔法師は目を伏せ睫毛を震わせる。
「……お前に触れたかった。ずっと」
艶めいた息を吐く様子はこれまで見たこともない。元とはいえ悪魔の誘惑に人間が勝てるはずもなく、まして驚き固まるシエラの唇に触れた指先はあまりに優しくて。
「許してくれるか」
「許すも、何も……っ」
我に返る。離れていく腕をがしりと掴むと、金色の目が見開かれる。
「いつでも! その、あなたなら……!」
慌てて訴える言葉にアーレインはゆっくりと瞬きした。
「てっきり口付けが嫌いなのかと……」
何を……と問う前に思い出す。魔方陣の部屋、対価を要求した悪魔。
「あああ、あの時は違うじゃない!」
掴んだ腕を引っ張り、精一杯につま先立ちする。勢い余って歯が当たってしまったが、謝るより先に後頭部を支えたのは大きな手。
「確かにあれは、まあ」
身を屈めた魔法師は、シエラよりも余程上手くやってのけるのだった。
「……悪かった」
言い終えると同時に頭を撫でる。今回は噛みつくこともなかった、ただ柔らかく触れるだけの。驚きと喜びとばつの悪さと……ごちゃ混ぜの感情が逃げ出さないよう顔面に力を込める。シエラだって成長した。契約した時とは違うのだ。
「……もう泣かないわよ」
どうにか睨もうと試みたのだが、彼の勝ち誇った表情を見るに失敗したのは一目瞭然だった。
「まったく、首輪でもつけておきたいところだが」
「え」
呟きに今度こそ硬直する。
「へっ変なこと言わないで。犬じゃあるまいし……ねえリリィちゃんっ?」
そういえば一部始終を見られていたのだ。恥ずかしさを誤魔化すために振ってみれば、従順な獣は同調するように力強く一鳴き。
「お前は犬だろ、リリィ」
アーレインの声もどこか苦々しい。わふ、と素知らぬ風で鳴いた獣はそのまま向こうへ駆けていってしまった。もしかすると見守っていてくれたのかもしれない。
「さて……お前に渡したい物がある」