第30話:奪うのではなく
「……何かあったか?」
シエラの様子に気付いたアーレインは立ち上がり、バルコニーへと続く大きな窓を開けて出た。隣に並んでみるとシエラが見たものは華美な装飾の支柱……いや。
「杖?」
「ああ」
「本物?」
「本物だな」
言葉を失い隣を窺うと、じっと見下ろしてきていた視線とかち合う。金眼がふっと可笑しそうに緩んだ。
「皆、あれを見て同じような顔をする」
「そっそれはそうよ……!」
血の気が引く心地がした。何せ他の棒切れと同じように扱われているあの杖、式典で見たことがある。持ち主がここの家主なのだから疑う理由を挙げる方が難しい。
「そうだわ、あの話……」
「ん」
「本当なの? 大魔法師様の後継、って……」
どうしても話は先日のことに戻ってしまう。アーレインは殊更不機嫌そうに手摺へと身を預けた。
「ジジイが勝手に言っているだけだ。俺は地位も権力も要らない。無力な人間の権謀術数など煩わしい」
「そう……」
「だが、まあ……」
「どうしたの?」
「いや……それを断ったことで、お前を失望させたくない……とは思っているが」
彼がこうして歯切れの悪い様を見せるのは初めてではない。その度に、もっと普段の態度を徹底してくれればいいのにとシエラは思う。悪魔だった頃には有り得なかった。何せ、あからさまに耳や頬を染めるものだから、言葉を受け取る側は緊張と愛おしさとではち切れてしまいそうになるのだ。
「今は独りで生きられるほどの力がないことも、頭では理解している」
「……あなたは独りじゃないでしょう?」
ざらついた金属の手摺が熱を冷ましてくれるようで。庭から敷地の外へと続く一本道は木立に消え、遠く街並みがぼんやりと見える。明るい陽光の下、緑の匂いを胸一杯に吸い込んだ。穏やかに言葉を交わしているこの瞬間が、本当に夢みたいだとシエラは思う。
「ラダン様以外の魔法師様とも関わりはあるでしょうし……うちのお客さん達もあなたのことを気に入っていたわ」
「妙な話だ。何を施した訳でもないというのに」
アーレインが肩を竦めたのを視界の端で捉えながらも、顔を向けることは出来ない。畑の畝をじっと睨む。何となく目が潤むのはきっと眩しさのせいだ。
「……ラダン様の言葉で考えたの。本当ならわたしみたいな一般人は、魔法師様とこんな風に会話できない。雲の上の存在なのに」
生まれ変わってもう一度会うことができて、こうして共に過ごす機会を与えられているというのに。人間はどこまで強欲なのだろうか。奇跡を前にしても、もっと多くを望んでも許されるだろうか。
「……俺にはヒトの貴賤はわからない」
悪魔だった男は、今日はシエラの頭を撫でることはしない。
「だが、悪魔を慈しんだ娘が同じ人間に対して身分を理由にするのは、その……ああ、駄目だな、卑怯な言い方になる……」
「でもね! でも……」
苛立ったように髪をかきあげる途中。弾かれたようにシエラが顔を向けたものだから、アーレインは珍しく瞠目していた。
「あなたがわたし以外のひとと仲良くなるのを想像したら、なんだか苦しくて……あなたのこと、わたしが一番知っていたい」
つっかえながらも伝え続ける。どうしても今、此処で。この時代この瞬間に。
「つかまえなきゃ、捕まえておかなきゃ、って……そう思ったの」
「『タニア』」
眉根を寄せ苦しそうに呟く。微かに潤んだ瞳は決意と不安の間に揺れて。
「お前はいつも、何度も、俺を愛情深いと評した。悪魔にとっては恥と思っていたが」
タニアは彼が悪魔だからといって遠慮などしなかった。知らなかったからだ、どれだけ愚かしくて畏れ多く、勇気ある行為だったかを。そして、己に対してだけ向けられる愛の存在も、それを失う恐怖も。
「悪魔はヒトに利用される立場だ。だからお前が俺を慮ったこと、そもそも共に旅をしたいと申し出たこと。暗闇で時を過ごしてさえ……どうにも忘れられそうになかった」
かつて彼は言った。最終的に利を得るとしても、使役されることに変わりはないと。彼の言動に義務以外の動機が含まれていたことなどタニアはとうに気付いていたのに、だからこそ踏み出せなかった。
「……俺を笑うか」
「いいえ、笑ったりはしないわ。絶対に」
しっかりと首を振る。戯れであるはずがないからだ。腹に力を込め、見上げる。
「ずっとあなたに甘えていたのよ。家族も友人も先生も、その、たぶん、恋人も……昔の『わたし』が欲しかったもの全部、色んな立場を押し付けて……そうしてあなたはちゃんと応えてくれたわ。わたしのことを蔑ろにしなかった」
きちんと目を見て、話を聞いて。それだけと言えばそれだけだ。だがタニアにとっては何にも勝る救いだった。
「だからあの時に後悔することなんて無かった。あれは本心よ。でも一つだけ、新しい願い事があって……今考えると幼稚で恥ずかしいのだけど」
だって恐らく執着だったのだ、あれは。
「何故お前のような娘が俺を喚んだのか、ずっとわからなかった」
タニアと巡り会ったのは確かに偶然だったのだろう。だがシエラは違う。他の誰でもない彼を望んだ。
「シエラ・フリンジ」
身体ごと向くのでつられて向き直る。改まって、確りと。
「望みはあるか?」
長身をわずかに折り覗き込む。胸に手をあて見詰める姿は忠義を誓う騎士にも近しく。
紅蓮の景色の中、あのとき真っ先に思い浮かんだのは目の前の――
「名前……思い出したの。あなたの美しい名前」
彼は目を逸らさない。黙ってシエラの震える声を聞いている。
「『アルナイール・アル・ムーリフ』」
一語ずつ丁寧に発音する。口に出すのはこれで二度目だ。
「そうだ。それが俺の真の名」
ひたりと見返す瞳は月を映す凪いだ湖面のよう。彼の色彩は、太陽に照らされてさえも夜空を想起させる深さを湛える。かつてタニアが契約したのは星を冠する美しい悪魔だった。
「でも、わたしはあなたを支配したいわけじゃない。隣に居たい……あなたがもし、望んでくれるなら」
相手を従わせるために真の名を呼ぶと、そう教えてくれたのも彼だった。それならもう、これ以上あちらの名を呼ぶ必要はないだろう。
彼の気持ちを聞きたい。
「お願い。傍に居て、アーレイン」
水面が微かに揺れる。シエラにとっては永遠にも感じられる時間だったが、やがて。
「お前に名を呼ばれると不思議な心地がする」
大きな手がシエラの片手を掬い上げる。契約の時と同じように甲へと口付け、額に押し抱き祈るように。
「最早『悪魔』ではないが……俺の人生をお前に与えよう」
奪うばかりだったと自らを称した青年からの、これ以上ない贈り物。あまりの出来事に耳鳴りがするほど身体中が熱い。と、シエラはあることに気付く。
「お返しをしなくちゃいけない……?」
「喜ぶ気持ちが対価なんだろう? お前がそう言った」
「そう……そうよね!」
同じ気持ちだと確信を抱く。彼はこんなに慈愛に満ちた表情で笑うのか。初めて知ることができた、『シエラ』を生きなければ知ることもなかった。
「嬉しい……本当に、すごく嬉しいわ」
堪らず胸に飛び込むと、未だ戸惑いの滲む気配に包み込まれる。
「わたしも、わたしの全てをあなたにあげる」
ずっと伝えたかった言葉を。
「ねえアーレイン、大好きよ。生まれる前からずっと」
これなら彼も受け取ってくれるに違いない。腕の中から愛しい人を見上げ、シエラは涙を浮かべながらも悪戯っぽく笑った。
「ね、奪うのではなくて、贈られるのなら良いでしょう?」




