第2話:夢
かの悪魔はどんな存在だったか、一言で表すのは難しい。会ってどうしたいというのでもなかったが、もっと彼のことを知りたかったという後悔だけが燻っている。
隣町へは馬車を使ってもおかしくない距離だ。買い出しに行くことはあれど荷物が多いからいつも一人ではないし、そうそう自由に遠出する機会もない。
理由をつけて行くことは可能だったが……この気持ちが疎まれたら? それどころか、自分を覚えていなかったら? そう思うと確かめることは恐ろしく、どうにも足を向ける気にはならないのだった。もしあれが契約を成している最中だったなら、もう別の場所に去ってしまったとも考えられる。
タニアとの契約を果たした後、どのように過ごしてきたのだろう。あれからもずっと人の願いを叶え続けてきたのだろうか。
しかし望んだ再会の機は翌年の祭りよりもずっと早くに訪れることを、シエラはまだ知らなかった。
――果たして争いは続いていた。由緒正しい軍人など一握りであり主戦力は傭兵だ、命惜しさに互いが手を抜けば決着は遠くなる。休戦状態をしばしば挟みながらの消耗戦が常だからこそ、国家はゆっくりと疲弊していく。そう教えてくれたのも軍服の悪魔だった。
戦場の上空、悪魔は少女を抱えて飛ぶ。触れられることに慣れたのは何時からだったか。彼は必要以上に近寄りもしなかったが、不要なまでに少女を避けることもなかった。寒い夜や雪や雨の道の度、人間は脆いからと貸される上着に礼を言うのもきっと今日が最後。長身の彼が纏う服はタニアにとっては大きすぎたが、暖かさも格別だった。
「しかと目に焼き付けるがいい。この光景を前にして尚、ひとつの犠牲も出すなと望むのか?」
「ええ」
「……わかった」
一息の間。言い訳のように付け足す。
「卑怯だと思ってくれて構わないわ」
「いや」
少女が襟元を掻き寄せて首を竦めると、嘲りでなく静かな声が降ってくる。
「もしそれがあの兵士達にとっても幸福ならば、お前の願いすら知られないことが哀れだとは思うがな」
はっと見上げても彼はもはや少女に視線を遣ることはなかった。乾いた大地を見つめる無機質な金色は美しい。如何なる理由をつけようとも他人の大義を踏みにじるのは戦争と変わらない。これから成すことは、救いではなく災いとして語られるのだろう。
「始めるぞ」
唐突に青い光が周囲を満たしタニアは思わず目を瞑った。ごうごうという風の音、そしてそれを切り裂いた甲高く悪寒の走る鳴き声。頬に熱い空気を感じ怖々と再び目を開くと、悪魔の周囲には複雑な紋様が無数に光で描かれている。青い光の正体は魔方陣で――遠く戦場の上空を、炎の巨鳥が滑るように飛んでいた。
「あ、アーレイン」
恐ろしかった。すっかり呼び慣れた名が舌に馴染んでいたとしても。不安になり見上げるが返答はない。それでも強風から守るように抱えてくれていることが、唯一タニアにとっての真実だった。
悪魔の法は兵士を避ける。人間達は上空の怪鳥こそを恐るべき厄災と見ただろうが、そこから振り撒かれるのは僅かな火の粉のみ。あれは『目』だ。巨鳥の視界を通し狙いを定め、まるで苛烈な天罰を与えているのは悪魔本人だった。うねり燃え盛る炎や嵐のような雷の前では、人間の扱う武器など玩具にも足りない。しかしながら注視してみれば、悪魔の法が放たれるのは人のいない地面であったり空っぽの天幕であったりした。
「蝿のように次から次へと……!」
苛立った呟きが漏れた時には、さすがの悪魔とて額に汗を滲ませていた。只でさえこれだけの魔法を同時に発動するには並の胆力では叶わない。しかも少しでも集中を欠けば余波ですら人間は消し飛ぶだろう。
「天使を相手取った時とてここまでのことはなかった」
全てを焼き払ってしまう方が余程容易いに決まっている。タニアにも無茶を言っている自覚はあった。
何を気にしてか、手を構えたままで悪魔がようやく見下ろしてくる。一面の青を映した瞳に踊る炎の紅色。片耳に揺れる二枚の羽根もまた彼方を飛ぶ鳥と同じ色……触れれば火傷をしてしまいそうな、熱した鋼の色をしていた。
「悪魔は契約を違えない」
強調された主語は言外に人間を軽蔑する色を含むが。
「一度従うと口にしたのだ。お前の願い、必ず叶えよう」
涙する少女に彼は端的に問うた。
「……後悔は、あるか?」
本当は学校にいってみたかった、大人になって、結婚をして子供を産んで、長生きして、色んなものを見て、たくさんの経験をして――
欲望に限りはない。思い付く願いは数あれど、何れも契約の時に諦めたはずだった。だってあの時は、契約を成したことで新たな願い事をする羽目になるとは思わなかったのだから。
――もっとあなたと一緒にいたかった。
言葉にできるはずもない。ただ彼の服を握る小さな手に力を込め、首を振ることしか。
たとえ兵士を生かし娘の命を奪っても、何事もなく世界は回ることを悪魔は知っている。だからそれは、悪魔特有の単なる『気まぐれ』に過ぎなかったのかもしれない。
僅かの間だけ魔法を放つのを止め、空いた手でタニアの頭を撫でる。出会い頭の時とはまるで異なる慎重な手付きに困惑し見上げれば、滲んだ視界にも金色は鮮やかで……彼は見たことがないような傷付いた表情をしていた。いつでも怜悧な無表情で、表す感情と言えば嫌悪や嘲りばかりだった悪魔は、喜びに対して本当はどんな顔をして笑うのだろう。だがそれをタニアが知ることはないのだ。また一つ、後悔が増えた。
「……さあ、これで最後だ。お前に全てを与えよう。願いを込めて俺の名を呼べ、『タニア』」
熱く土っぽい空気を吸う。少女が悪魔の本当の名を呼んだのはそれが最初で最後だった。そして、名を呼ばれたのも。
夢から目を覚ます。もう少しで名前を思い出したかもしれないのに。あの時に見た彼の表情は見間違いではなかった……と思う。余韻を反芻しながら再び目蓋を閉じてしまいたい衝動に駆られる。
「シエラ様?」
「あ……はい!」
ノックの音に慌てて身を起こす。入ってきたのはローズだった。皺のないエプロンを身に着け、髪もきちんと結い上げて。几帳面という程でないにしろ、それなりの年数を経ているためか彼女はどんな家事でも手際が良かった。階下からは朝食のいい匂い。仕事の他に家では作りたくないと言う両親に代わり、まかない以外は彼女の手料理で育ったから、それが上手いこともよく知っている。
「おはようございます。珍しく起きていらっしゃらないのでお声がけしてしまいました。遅くまで本でも読まれてました?」
「いえ、そういうわけではないのだけど」
急いで寝癖を手櫛で整えていると、あら、と覗き込まれる。
「具合がよろしくないなら、今日の予定は中止していただけるよう旦那様にお伝えしましょうか?」
長く世話をしてくれているだけあってさすがに目敏い。シエラが初等教育を受けていた頃からだから、もう五、六年の付き合いになるだろうか。気遣いの言葉に首を振る。
「平気よ、ありがとう。すぐに支度するわ」
それにシエラにとって今日は大事な日なのだ。逃したらきっとそう何度も機会はないだろうから。