第25話:真名
アーレインに挑んで来る者は後を絶たず、加えて勢いで酒など勧められれば断る訳にもいかない。すっかり立ち去る時機を見失ったまま、結局は店を閉めるまで手伝いをする羽目になったのだった。ラダンに仕込まれ一通りの家事を身に付けていたことも役立ち、シエラだけでなくその両親にも謝意を示されたのは存外悪い気はしない。
とはいえ、人と話すのにはまだ慣れなかった。喧騒が頭の中で反響し続けているような。実際動いた以上の疲労と頭痛を感じながら、来た時と同様に転移魔法でラダンの家へと帰る。
以前、室内に直接転移したら「オレの心臓を止める気か」と悲鳴を上げられたので、広すぎる畑の側に降り立つ。そのぐらい察知しろと言いたかったが口論になるのも面倒だった。こうも平和な世界では、魔法の気配など意識しなければ気付かないのが普通なのかもしれない。
それにしても馬鹿げたことに魔法を使ったものだ、わざわざ人間相手に微妙な加減までして。思わずため息が漏れる。
肌寒い大気によく通る虫の鳴き声、風に木々が擦れる音。――ふと、全ての物音が消えた。
素早く周囲に視線を走らせる。違和への反射は癖にも等しい。『ヒトの眼』で見る限り変わったところはないが。いつでも応じられるよう身体中に魔力を張り巡らせる。
「……っ」
突風が巻き起こった。目を開けていられないほどのそれを腕で防ぎ、気配だけは探り続ける。魔力だ、それも人間のものとは性質が違う。もっと滅茶苦茶で力強く、乾いた欲望に満ちていて……よく、知ったような。
風が止み、現れた青年の姿にアーレインは目を瞪る。彼の身を包むのはかつて自身も纏っていたのと似た軍服。
「……ライアス……」
「久しぶりだね、アーレイン」
灰白から緑へと移り変わる髪色、それに飴のように艶のある碧眼は人間ならば見惚れる美しさだろう。背も大して高くなく些か幼さの残る外見ではあるが、浮かべた笑みは酷薄なもの。
「ああ……ここは魔素が多いね、地上にしちゃ居心地が良い」
悪魔ライアス。無論、単なる呼称であって本来の名ではない。彼は戯れに地上を訪れるほど人間の営みには関心がなかったと記憶しているが。
「随分とあの娘にご執心みたいじゃないか。食堂ね、行ったよ。あれはいい店だ、何せ善人しか居ないもの!」
ケラケラと笑い声を上げる。ヒトの身になるまでは彼とは頻繁に顔を合わせていた。屈服させるか心を殺し従うかが当然の世界で、ほぼ唯一背中を預けることのできた相手。
笑みを浮かべたまま歩み寄ってくるライアスの背後、家にまだ明かりが点いていないことを確認する。目的は不明だが場所を変えるべきか。
「というか、そうだ、僕のこと忘れちゃったかと思ってたよ」
「嘘を吐け。その姿で現れておきながら」
碧を割った瞳孔、爬虫類の瞳を見つめる。アーレインが失ったものの一つ。
「君は無駄話が嫌いだよねえ昔から」
対照的な彼等のやり取りはいつでもこうだった。目の前の悪魔は喋り好きで、仕事ぶりは回り道のようにも見えていたものだ。
「それなら、僕も手短に伝えようか」
目を細めたその感情は読み取ることができない。だが幾分かの懐かしさは混じっていたにしても、昔話を語らう空気からは程遠いに違いなかった。
「友達の誼で忠告しに来たんだ。感謝してね」
「忠告?」
「出来る限り早く、君が守りたいものから遠ざかった方がいい」
「それは、どういう……」
「可愛がっていた君に背かれたと『総帥』サマがひどくお怒りなんだよ」
即座に理解する。何が起こるかは解る、だが、あまりに今更の話だった。悪魔であることを捨てると決めてからどれだけの年月が経ったと思っているのか。アーレインは狼狽する他ない。
「背くも何も……俺は既に罰を受けた」
「そんな理屈が通用しないことぐらい知っているだろ? 悪魔は気まぐれ!」
「ヒトの身となってまでか」
「下位存在になったんだ、楯突くことは出来ないよ」
悪魔の序列は絶対だ。精々が知能の低い下級魔族を率いていた彼らと違い、『総帥』はまさしく悪魔を束ねる総大将の地位に在った。
折檻を思い出し詰めた息をどうにか吐き出す。身に刻まれた恐怖の記憶は色褪せることもない。今となっては何が切欠だったか覚えていないし数え切れもしないが、『総帥』の気に召さなかったなら懲罰の理由は毎回それで足りるのだった。
その悪魔は派手な魔法を使うことはあまりなく、最も得意としていたのは相手の『感覚』を操る法。幻覚に始まり、苦痛も快楽をも……鋭敏にするも鈍化させるも自在で、最小の労力で他者を痛め付ける術に長けていた。
「僕達、とっても愛されていたからねえ」
なまじ頑丈な体と強靭な精神を備えてしまったが故。階級こそ大きく隔たるが、彼らは『壊れないがために』気に入られ、特別近くに仕えるよう命じられていた。それにより互いに同胞として仲を深められたのだから皮肉な話だ。
がばっと前髪をあげてみせるライアス。その額には横一閃の大きな傷痕がある。
「これ、覚えてる?」
「……ああ」
「君が庇ってくれなかったら、危うく一生を『犬』の目線で過ごす羽目になるところだった」
彼が両目を潰されそうになった時だ。あの時はアーレインが割って入り、身を挺して頼み込んだからこれだけの傷で済んだのだ。悪魔は眷属と五感を共有できるとはいえ、己の肉体を失うのが不便なことに変わりはない。
「君のは『鳥』だからわからないだろうけどさ、僕のだと結構疲れるんだぜあれ。おまけに『六つもある』から、目が回るったらないよ」
「見えなくても然したる問題はないだろう。それにお前だって俺のために何度も鞭打たれたはずだ」
「まーね、それもそうか。お互い様だ」
ふたりの体には同じように無数の傷痕がある。言葉通りに身を以て、痛みも容赦の無さも知り過ぎていた。
「まあ今回は尻尾を巻いて逃げたところで無駄だろうけど。被害は最小限にしておいた方が良いんじゃないかなー?」
にやにやと向けられる視線。どうやら彼は親切心のみで訪れた訳ではなさそうだった。当然かもしれない。誰かが居なくなれば、その分の矛先は残った者へと向かうだけ。
「だって君は半端者だもの」
ライアスはアーレインの耳に下がった銀の羽根を指差す。
「完璧なヒトに成れない癖に。満足に使えもしない眷属を従えて」
「……見くびるなよ『シュローロス・ル・リオラ』」
堪らず唸ればライアスの笑みが引きつった。彼の本当の名だ。本来は悪魔同士でさえ真名を知ることはそうない。彼等は互いの力を認めたがゆえ、最後の最後、アーレインが悪魔であることを捨てる前に名前を交わした。
「矜持まで捨てた覚えはない」
チリ、と耳飾りが火花を散らす。
「ハッ、大きく出たねニンゲン風情が」
悪魔はおどけて両手を上げて見せた。目の奥に冷酷な色を灯したまま。彼にしてみれば侮辱も同然だった。
「悪魔を屈服させられるものならやってみるが良いさ。その脆弱な魔力と軟弱な肉体でね」
襟元を緩め、首輪を露にする。獰猛な猟犬に対するかのような戒めは単なる装身具ではない。これこそがライアスの眷属との契約の証。
「君の死体をあの娘に見せたくないのなら、言うことを聞いておくのが懸命だと思うよ? ねえ、そうだろう『アルナ――」
声を掻き消したのは巨鳥のおぞましい鳴き声。アーレイン自身の影から飛び出したのは炎の体を持つ鳥だ。その突進を同じくライアスの影から躍り出た巨大な三頭犬が迎え撃つ。耳をつんざく化物の咆哮。戦場ならばいざ知らず、静寂の夜にはあまりに目立ち過ぎる。
「……話にならない」
悪魔は言い捨てる。三頭犬が打ちのめした鳥を丸太のような前足で踏みつけると、羽根を散らしもがく姿が陽炎のように揺らいだ。『狩り』の結果は明らかだった。
「嘗めているのはオマエの方だ。アーレイン」
目を細め労るように首輪を触る。
「見ろ、この僕にさえ敵わない。身の程を知れ裏切り者が」
炎の鳥が見た目の通り『雨』を弱点とするのに対し、ライアスの眷属は『陽光』を苦手としている。今や夜の帳が夕の空を侵してきていた。盛大な舌打ちと共に先に目を逸らしたのはアーレインの方。幻影の炎を名残に咲かせ巨鳥は消失する。忠実なる三頭犬はそれを見届けて再びずるりと地へ潜った。
「……了解した。忠告、感謝する。ライアス大尉」
彼らは同等の位だったが争ったことは一度もなかった。その実もしかするとライアスの方が魔力は強かったのかもしれないが、今となっては確かめようもない。




