第22話:軍服の悪魔
「先生?」
しばらく経ってからおどけて呼んでみると、それまで微動だにしなかった青年はまたしてもすぐに目を開けた。やはり眠っていた訳ではないらしい。それとも……過去にそういった訓練も経たのか。何時でも即座に起きられるような。もしそうして常に気を張っているのだとしたら、多少の朝寝坊くらいは大目に見るべきだろう。
呼称にわずかの戸惑いを見せたものの、元々この場には二人しかいない。アーレインはシエラの隣にやってきて腰掛けた。
「ここの記述がよくわからないのだけど」
シエラが見ていたのは植物の成長を助ける魔法だ。彼の授業ではまだ扱っていない。
「……相変わらず花が好きなんだな」
呟くも、目は既に手元の文字を追っている。確かにシエラは花が好きだ。そして確か、タニアも。
「光魔法の応用か。前に教えた光量を絞る魔法の理論を用いる。ここで魔素に方向性を与えた後、こちらの式に繋がっている」
軽く一読してすぐ指で示しながら解説する。低く落ち着いた声に和やかさはなくても、シエラにとっては心地好いものだった。
「それから、恐らく呪文のこの部分は省略していい」
「そんなこともわかるの?」
「時を経たことで複雑化している法もある。実際に試しながら、より効率の良いやり方を探すこともあるからな。大概ジジイとは意見が合わないが」
以前ラダンが天才だと評したのもわかる。大魔法師と対等に魔法を論ずることができる者など稀だろう。まして当人には然したる熱意もなさそうに見えるのに。
「後で練習してみるか? 庭の作物になら使っても文句は言われないはずだ」
「本当に? ぜひお願いしたいわ」
優秀な魔法師のお手本を間近で見られるのは素直に嬉しい。礼を述べ、忘れないように栞紐を挟んでおく。
アーレイン自身の意思がどうであれ、すっかり教え方も板についてきたとシエラは思う。
「あなたもラダン様と同じように研究の道を?」
尋ねてみれば首を振り。
「ともかく以前と同等まで力を取り戻したいだけだ。その後のことは……それから考える。好きに暮らせと言われているしな」
人の身で悪魔と同じだけの魔法を使いこなすにはどれほどの鍛練が必要なのだろう。平凡に過ごしてきた少女には想像もつかない。
「理屈もわからず使うことができた法は、言うなれば偶然や事故と同じだ」
「偶然や、事故……」
彼は昔からいつも冷静で取り乱したところなど見たことはないが、かといって断じて無気力でもなかった。時折見せる気位の高さと執着は、彼が何処かへ消えてしまうようなことはないのだと、シエラを妙に安心させるものでもある。
「罰を受けていた間は力を封じられていたが、もし根底の理を解していたなら魔法を使えたかもしれない。だから論理や因果を解すればきっと……俺は前より強くなる」
金色に宿る炎は美しい。シエラが、かつてのタニアが焦がれたのはこの志だ。純然たる力の渇望。彼は才覚を持ってなお高みを見据えることを忘れなかった。悪魔であろうとなかろうと、それは彼個人の資質なのだろう。
「あなたがきっと魔法を修得して、それから、そうしたら」
一瞬口ごもる。ひどく身勝手な言い分かもしれない。意を、決して。
「この世界でやりたいことも見つかるはずよ。わたしも協力したい」
「気に病む必要はないと言ったはずだ」
「同情じゃないわ。昔は自分のことで必死で、せっかく助けられたのにあなた自身のこと何も知らなかったのを後悔してた。もしあなたが困っているなら力になりたいし……」
彼の金色の瞳が輝くところを見たい、と思う。
「だからもっと教えて欲しいの。好きなもの、楽しいと思うこと、たくさん」
あの頃は自分のやりたいことを優先してくれたから、とは飲み込む。そんな『お返し』のためだけではない。これはシエラ自身が、今、思っていることだ。
アーレインは少女をじっと見つめ、やがて。
「……どうしてお前は」
ぱたんと本を閉じる。目を伏せ苦しそうに。固まるシエラを再度見た瞳はどことなく潤んでいる。胸に突き刺さるその表情は、少女の願いを叶える間際に悪魔が見せたものと同じだった。
「戦場で使う以外の魔法を、俺は知らなかった」
表紙を長い指がなぞる。草花に関する魔法など悪魔の世界ではきっと不要だったに違いない。
「悪魔の序列は基本的に軍の形をとっている」
痛ましい痕跡の数々を思い出した。あれは一方的に為されたものだと言っていたが。
眼前で争うことこそなかったが、青年は昔、ずっと軍服を身につけていた。軍人と少女の取り合わせは奇妙だったろうが、彼は金なら持っていたから然程の騒ぎにされることもなかった。軍帽さえ脱いでしまえば、外套を羽織っていたしそこまで目立つものでもない。
最初こそタニアの見た目がみすぼらしく人売りと間違われたものだが、さすがに自尊心がゆるさなかったのだろう、渋々ながらも髪から衣服から整えるため店へと連れていってくれたのも覚えている。財力のある美しい若者に請われれば、痩せ細った粗末な少女に対してどの職人達も親切に接した。
「俺は中隊の指揮官だった。かつてお前が厭うた戦こそを生業としていたんだ」
「……」
「互いに領土を争い権威を示さねばならなかった。実力こそが全てで、やることと言えば契約に応じて糧を得るか、他の悪魔を蹴落とすか」
悪魔同士が争う理由はごく単純なものだと彼は語る。だから、より強い魔法を求めたと。
「あなたの意思で人間に危害を加えたことはあるの……?」
「そんなことをして利などあるものか。人間の持ち物に興味は無い」
「そんな……それじゃあ人間が考えている悪魔って」
「契約のために喚び出された悪魔は『道具』に過ぎないからな。差し出されたものは礼として受け取るが」
悲しそうにも悔しそうにもせず。口を押さえた少女の前で、双眸が幾年の時を辿り揺れる。
「久方ぶりの地上は……眩しかった」
タニアと別れてから気の遠くなるような年月を暗闇の牢獄で過ごし。
「寒さも疲労も飢えも、悪魔だった時に比べ何もかもが鋭く鮮やかで」
降り積もる雪のように静かに落ちる言葉は、確かに当時の彼の実感だったのだろう。
「食べなければ生き延びられないと理解はしていたが、盗み奪いでもしなければ金もない。あてもなく彷徨っていたところで、魔素が満ちた不思議な土地を見つけた」
「……この家?」
頷く。
「地獄に似た土地だと思った」
悪魔の住む世界には、地上と比べ物にならないくらいの魔素が存在すると言う。
「ヒトに保護されねばならない屈辱はわかるまい。だが同時、食い物をあれほど旨いと感じたこともなかった」
先の言葉を思い出してシエラははっとした。どれだけ飢えようが、奪わないようにと、それはずっと守っていたのだ。人間になったといっても力で蹂躙することなど容易かったに違いないのに。こみ上げる感情はシエラ自身にも何と名付けていいかわからなかった。彼自身に伝える言葉も勇気も持たないことが、堪らなくもどかしかった。
「お前は旅の最中に何度も俺に意見を求め、感情を問うてきたな」
アーレインはふと笑った。それは初めて見るような優しい表情で、シエラは今度こそ心臓が飛び出してしまうのじゃないかと思う。あまりに卑怯だ、今そんな顔をするのは。
「俺のことが怖くないというのは今も同じか」
「……怖くないわ」
動揺を呑み込んで真っ直ぐに返す。
「畏れ多いような気持ちはあるけれど、それって恐怖とは全く違う」
「そうか」
ほんのりと嬉しさが滲んで見えたのは願望が見せた幻覚かもしれない。
「俺を恐れないのは不思議だが。お前という切欠があったことについては何ら否定的な感情はないと、伝えておこう」
しんと静寂が満ちる。もはやシエラの頭はまともに働いてくれそうにない。素直に受け取ろうが深読みをしようが、そこには好意的な解釈しかなかったからだ。堪えかねて口を開きかけた時、
「嬢ちゃん! ちょっと手伝ってくれるか」
階下からラダンの声がして、シエラは文字通り飛び上がった。




