第0話:誓約
魔方円、石灰岩。魔方陣、砂。周りに蝋燭。
その、悪魔は。
「…………」
『フォーク』を口にくわえていた。武器としての戈ではなく、細く小さなデザートフォーク。
ヒトの姿をして魔方陣の上でぱちくりと瞬きした悪魔。少女も本を開いたまま、それを見上げ硬直する。やがて彼はばつが悪そうに顔をしかめ、片手で握り潰すようにフォークを消失させた。咳払いを、ひとつ。
「喚んだか、娘よ」
少女がうなずいたことを確認し、悪魔は魔方陣から一歩踏み出す。
「そうか――」
奇術の如く手の内に現した軍帽を目深に被り直し、軽やかに段差を飛び越えたかと思えば、流れる動作で少女の顎を持ち上げる。所作はともかく外見は若い軍人かのようだ。魔方円にはブーツの爪先さえ踏み入れられないが、黒の軍服に包まれた長い腕は易々と獲物に届く。円が小さかったかもしれない……少女は密かに唇を噛む。細められた悪魔の双眸は黄金。爬虫類を思わせるくっきりと縦長の瞳孔は『人ならぬ者』の証。その美貌は鮮烈な印象を与え。
何より彼が引き連れる空気そのものが、まるで張り詰めた糸の如く。ただ一瞬でその場に在る全てを支配する、圧倒的なまでの存在感。
少女は震える両足に力を込める。そんな努力さえ嘲笑うように、悪魔はニヤリと唇を歪めた。
「俺は貴様の指図など受けない」
紡がれる声は甘く、冷たく。
「たかが人間の分際でこの俺と取引できると思ったか。だが、そうだな……百万だ。百万の魂を用意できたのなら、考えてやらんこともない――」
「嘘」
震えながらもきっぱりとした声音に、悪魔は不快げに眉をひそめた。それでも少女はその足元を指差し命じる。
「戻りなさい、魔方陣の中に」
悪魔を喚ぶにあたって留意すべきことの一つ。『魔方陣の中にいる間は、悪魔は嘘を吐かない』。
呻いた悪魔はしかし、軽やかに地を蹴り退がると、言われた通りに魔方陣の中へと戻るのだった。
「……どうやら頭は悪くないらしい。それさえ知らん暴挙なら、取って食うところだったが」
「食べ……?!」
言葉を詰まらせる少女に悪魔は些か呆れ顔で。
「比喩だ、比喩。契約者の肉を貪り食うなどと、下劣な魔族と一緒にしないで欲しいものだな。俺達にも食らうものを選ぶ権利ぐらいある。契約の対価とは糧ではなく、貴様らの覚悟の証明だ」
ぼやくように。魔方陣の上に立ち、腕組みした彼は再び問うた。
「して、貴様の望みはなんだ?」
「戦争を終わらせて欲しいの」
「そんなこと!」
哄笑だった。先よりも威圧感は幾らか薄れたものの、少女を見下す姿勢は変わりなく、傲岸な態度も著わに微かな嘲笑を口元に残す。
「巨万の富は? 不老不死は? 愚か者どもを支配する力は? 小さな諍い一つを潰して、貴様が一体何を得ると言うのだ」
「国境の戦争がなくなったら、わたしは原っぱでお昼寝ができるわ」
「ハッ、馬鹿馬鹿しい」
吐き捨てるように呟く。襤褸とまではいかないものの貧相な身なり、古い小屋。丁寧な掃除は娯楽に費やす金すらないことの証左で、隅々に視線を走らせても財宝の類いは望めそうになかった。だが喚び出された以上、悪魔の中に拒否の選択肢は存在しないのも事実。
「まあ良い、貴様が望むならそれまでだ。俺がとやかく言うことでは無いだろう。望みを言ってみろ。全てを焼き払えばいいか、それとも兵士を皆殺してしまおうか?」
「……わからない」
「わからない?」
悪魔と取引をする時に留意すべきこと。一つ、『臆してはいけない』。
臆してはいけない――如何に悪魔が機嫌を損ねようとも。
「もっと良い方法があるかもしれないから……命を奪わなくても済むような――」
「理解できんな」
彼は怒り……否、怪訝そうに。
「貴様は何故、俺を喚んだ? 人間の力だけではどうにもならないからではないのか。人知を超えた力を求めておきながら何を躊躇う。俺を喚んだ時点で命を蹂躙しているも同然だろう」
少女は何か言おうと口を開きかけ、やはり閉じ、力なく首を振った。
「……そうね。わたしは、卑怯だわ」
悪魔は更に眉間の皺を深くした。契約を望むにしてはこの娘、気持ちが弱いのではないか?
「対価は」
だから少しばかり苛立ちながら問いかける。その答えは予想に反するきっぱりとしたもので。
「命を」
刹那の迷いなく凛と顔を上げる。少女は震えていたが、必死に悪魔の目を見つめていた。
「誰の命だ?」
「誰の、って……自分以外にあるの?」
そういう人間も少なからず存在すると……これから死にゆく相手に教えたところで詮の無いことだ。
「……ふん、珍しい。妙なことを企んではいまいな?」
「ひとを傷つけるのだもの、わたしにはこれくらいしか……いいえ、違うわね。わたしは逃げているだけだわ。生きて背負っていくのが辛いから、独りぼっち、だから」
彼は少女の言葉を然程気に留めることはしなかった。ただ淡々と、準備が整ったのなら実行するのみ。
「まあ、矮小な人間如きの浅知恵などどうせ俺には通用しない。それで、貴様の言う戦争とは北の国境での話だろう。ここから飛べば一日足らずだが」
「あの……っ」
「まだ何かあるのか」
「――た、旅をしてみたい。一気に行くのでなくて」
思いもよらない言葉に彼は今度こそ頓狂な声を上げる。
「旅だと? 悪魔を用心棒だとでも」
「そうじゃなく……! し、死ぬ前に誰かと体験を共有したいの」
さっと赤面した少女は俯く。
「わたし、家族も、友達も居なくて……この町から出たこともないから。死ぬ前に色んなものを見たりおいしいもの食べたり、してみたい」
「俺と、か?」
頷いた少女は古びた板張りの床を見つめたままだったから、凝視されていることに気付かない。恐怖され忌み嫌われることが常の存在に対し、どれほど勇気ある――或いは愚かな――行為か理解しているのか。動揺を隠すように彼は声を一段落とす。
「身勝手な。挙げ句に戦場に着くのが遅くなってでもか」
「……」
「ふ、はは」
嘲りの色を隠そうともせず笑う。
「それが貴様の真の望みだろう。ああそうだ、人間というのはそうでなければな。利のないことをするはずがない」
彼の知る人間とはそういうものだ。少なくとも聖人じみた言動をされるよりは好ましい。無欲な生き物ほど見ていてつまらないものはない。易々と投げ棄てられる命を捧げられたとて、全く面白くないのだ。
「良かろう、容易いことだ。その度胸に免じて叶えてやる」
「その、願い事を、二つも?」
まるで流星か神聖なものかとでも思っているような言い回しに小さく鼻を鳴らす。
「ならばこうしよう。貴様と旅路を共にしてやる。その果てに、もしも争いが続いていたのなら制圧することも含めて成そう。暢気に向かう最中に争いが終結した場合、貴様の国にどんな不幸がもたらされようとも知ったことではない。仮に、貴様が稀代の悪女と評されようとも」
無言を承諾と受け取る。黒衣の懐から取り出された一枚の契約書。「疑いあらば確認するといい」という悪魔らしくもない言葉に首を振り、少女は自分の名を下部に記した。悪魔は魔方陣の中にいて、わざわざ契約内容の確認まで勧めてきたのだ、疑う必要はないだろう。それにこれ以上、何が悪くなるというのだ。
内容もろくに見ず、引ったくるように悪魔はそれを再びしまう。
「対価を受け入れる。少々前払いをさせよう」
「前払い?」
「血を」
言うが早いか、彼は素早く少女の唇を塞いだ。藻掻く体を強引に引き寄せ、羞恥に染まる少女の頬などお構い無しに。つぷりと歯を立てれば赤子にも等しい幼い娘は大きく体を震わせた。
「……初めてか」
聞けば、少女は泣きながらうなずく。紅混じりの唾液を舌で舐め取りながら悪魔が見下ろした先には、顔を真っ赤にしてへたりこむ姿。
しゃくりあげる娘を見て暫し逡巡していた彼は、やおら屈みこむと嫌々という風情で小さな頭に手を置く。特大のため息と共に。
「『主人』に損害を与えたのでは悪魔として三流もいいところだ。さっさと泣き止め」
思わず再び身を震わせた彼女だったが、自分を撫でる手が悪魔のものとわかると涙も引っ込むくらいに驚いたのだった。粗雑ではあったものの優しい手つきは、先程まで高慢な態度をとっていた相手と同一のものとは信じ難かったし、彼女にとって初めて経験するような温もりに満ちていたから。
「……なん、で……」
「ん」
「なんで、フォーク、持ってたんですか……?」
悪魔はぴたりと手を止めて。どこか失望に似た表情と共に息を吐き出す。
「会食の最中だったからだ。残すは口直しだけというところで貴様が喚んだ」
「ええと、あの、お食事会……?」
「ああそうとも。領地の力を示す『大事な』場だ。珍しく『総帥』の機嫌が良かったというのに……負傷者なしで最後の品に辿り着くなど何十年振りだ?」
「ごめん、なさい」
笑いを堪えているのがわかったのだろう、彼は僅かに不機嫌さを滲ませつつ、それでも少女の瞳をしっかりと覗きこんだ。真剣な色を帯びた二つの金色は、息を呑むくらい美しい。金属の擦れる微かな音に、少女は彼の片耳に鳥の羽根を模した飾りがぶら下がっていることに初めて気付いた。先には暗くてよく見えなかったが、軍帽の隙間から見える髪は形容し難い綺麗な青みを帯びている。
「貴様、名前は?」
「タニア……あなたは、」
少女の耳元で囁かれた美しい名前。復唱しようとする唇には指をあてられる。
「それを口にした時、俺はお前に全てを与え、そして害するものを全て滅ぼしてやる。だが今はまだその時ではない。……俺のことは『アーレイン』と呼べ」
どうにか頷く。軍帽を胸に、少女の手を取り掠めるように甲へと口付け。冷たく燃えた瞳を細める。
「それでいい。契約成立だ、娘」