7本目
その夜、アタシは新宿にあるメタルバー「ゴッデス」をひさびさに訪れた。飲みたい気分だったのだ。
メタルバーというのはハードロックバーのメタル版である。店内はメタルの轟音が響きわたり会話もろくに聞こえない。だから人と一緒にくるよりかは、ひとりで飲むほうが適している。
あと、ナンパしてくる男が少ないという点も気に入っている。一度だけやたらテンションの高い白人男性に声をかけられたが、聞こえづらいふりをしたら余裕でかわすことができた。
なのに、そこでアタシはとても奇妙で恐ろしい目に遭った。
この店ではお客のリクエストした曲をかけてくれる。アタシはまだリクエストしたことはないが、ほかの人が選んだメタルナンバーを聴くのもけっこう楽しかった。
お、この曲はしっているぞ。パンテラの「マウス・フォー・ウォー」だ。ザクザクしたギターの音がとにかく耳に心地いい。
ドリンクは一律500円でその場で支払いをする。モスコミュールもジントニックも、ぜんぶおなじ味がした。いいのだ、酔っぱらいさえすれば。
ふと、通りがかった人がアタシに何かを渡してきた。一瞬のことだったので、それが店員さんかほかのお客さんかの区別もできなかった。
うっかり何かを落としたのかとも思った。とにかく渡されたものを見ると、紙ナプキンにボールペンで文字が書かれていた。
【★ 星影アキラ】
そう読めた。何これ、新手のナンパ? 宝塚の人みたいな名前ですね。
めんどくさいなーと思っているうちに、その男は図々しくもアタシのとなりに座ってきた。そしてアタシの肩に手を回した。
異変に気づいたのはそのときだ。カラダが金縛りにあったかのように動かない。声すら出せない。口は半開き以上には開かず、ひゅーひゅーと息が漏れるだけ。それもこの轟音のなかではかき消されて、周囲に気づいてもらうことは不可能だろう。
心底、恐ろしかった。突然あらわれたこの男はアタシにどんな術をかけたのか。アタシをどうするつもりなのか……。
『ここは五月蝿い。もっと静かで、二人きりになれる場所へ移動しようか』
男のささやくような声が聞こえた。轟音が響き渡る店内で、本来なら聞こえるはずがない。アタシの心に直接語りかけているかのようだった。
そのとき、アタシの目にある物が留まった。一瞬の判断でこれに賭けるしかないと思った。
『ん? タバコ……、タバコが吸いたいのかい?』
アタシが座っているカウンター席に元から置いてあったタバコの箱。先客の忘れ物だとは思うが、そのなかに1本でも残されていることをひたすら願った。
『よし、ボクが吸わせてあげよう』
そう言って男は箱からタバコを取り出し、アタシの無力な口にねじ込んだ。とりあえず、ここまでは作戦成功だ。
『おや、ライターがないじゃないか。ボクは持っていないよ、喫煙しないからね』
アタシは眼球に死ぬほど力を入れて、やっと視線を胸元に落とした。変態男よ、どうか気づいて!
男はいやらしい手つきでアタシの胸をまさぐり、ジャケットの胸ポケットからライター的なそれを取り出した。
『この状況でタバコを所望するなんて、きみは、とてもおもしろいコだ。約束どおり吸わせてあげるよ』
男はご親切に着火してくれた。まあライターじゃないから、それ、火は出ないけどね。
かわりにプシュっとガスが出た。それも強烈なやつ。アタシが護身用に持っているオニオンスプレーである。
至近距離でガスを浴びた男は目を押さえ、ゲホゲホとむせ出した。当然アタシの目からも涙がぼろぼろ。だが、この刺激によって金縛りが解けた。
店内が異臭騒ぎを起こすまえにアタシはダッシュで逃げた。この店が前払い制であって本当によかった。