⑥甘いかき氷と薄いトランプ
◎
学校の帰り道、もうすぐ自宅に到着する時のことだった、美しい原風景からほど遠い言い争いの声が田舎の道路に響いたのは。
ある民家の玄関先でいさかいが起きていた。
思わず、俺は足を止めて耳を傾ける。蝉や、鈴虫が鳴く声を無視して聞き入ってしまう。
このまま歩いていたらその人物と鉢合わせることになるので、こうして死角から聞き耳を立てるのは決して下世話なことではないと思いたい。
若い女性の声。いや、怒号。
「お姉ちゃんには関係ないでしょ!」
どこぞの家系の姉妹が喧嘩しているようだ。
「関係あるよ。あんなの失礼ってわからないの?」
「だからっ! それは私の自由じゃん!」
単なる振動、されど振動。
俺はそれだけで冷や汗を流していた。大声に気圧されて夏を忘れてしまう。
一帯響き渡る怒号が止んだ思ったら、その本人が家屋から現れた。現れたというか、顔も見たくないという風に出て来た。
唐突な展開。
俺は、隠れる間もなく出会ってしまうその彼女に。
って、水瀬遥じゃん。
たまたまいた俺に仇でも見るような睨みを向けたのも刹那、水瀬さんは俺の横を抜けて走り去ってしまった。そんな後ろ姿を遅れながら呆然と見送る。
「遥!」
すると、彼女の名前を呼びながらもう1人家から出てきた。
水瀬さんが出てきたことと、あの怒号を考慮して見なくともそれが誰か理解した。
そこには彼女の姉の嶺南さん。
手を腰に当てて、ご立腹な様子だった。
「ったく、あの子は……あ、君は……」
俺に気づくと昇った血が降りたのか、少し顔を赤くした。
それから、しばし。
「あ、お気遣いどうも」
「麦茶くらいしかないけどね」
テーブルの上に出されたのは来客用に使うものなのか、綺麗なグラスが用意されている。そこに麦茶が注がれていた。氷がカランと音を鳴らす。
俺は、水瀬邸にいた。
何故ここにいるかと言われれば、話に流されて案内されてしまったから、以上。
姉妹喧嘩を見られた嶺南さんは俺に気づくと、若干気まずそうにしたが「ちょっと寄ってかない?」なんて誘ってきたのだ。
さて、冷たいお茶を喉に通す。
吐く息も冷たなった。
「それでどうしてここに?」
「京都君は遥のクラスメイトっていうから話聞きたくて」
「話……ですか」
「学校ではどう? あの子」
学校での水瀬遥の印象。
難しい質問だ。正直に答えてしまえば、ない。
どうもしてないし、どうもされてない。
受動にも能動にも、特筆することは皆無。
だから答えようにも言葉が思い浮かばなかった。無印象を言い替える言葉とは何か。
「どうでもいいって感じですよ。無関心を貫いてます」
「やっぱそっか」
嶺南さんは最初からわかっていたかのような台詞を吐いた。
やっぱ、とか。
姉である彼女がそう言うのなら家庭の事情が関係しているようにな気がする。物憂い表情で遠くを見つめていた。
俺も訊いてみる。
「それで喧嘩したんですか?」
「ううん、違うよ」
そういえば、失礼とか何とか言っていたな。
「無礼でも働いたんですか」
「まあ、そうだね……」
「人付き合いにも色々あるんですね。俺には関係なさげですが」
「そんなことないよ? あのバーベキューの時とか無愛想だったでしょ?」
「…………」
彼女はさも当たり前のように言うが。
あのシーンを見ていたことに驚く。
近所の人と挨拶していたと思ったのだが。背中に目でも付いているのだろうか。
うん、冷たい対応されたのは確かだ。
俺は別に気にしてなかったが、水瀬さんはそういうことを他の人にも行っているらしい。敵を作るようなことを平気でやるとは本格的に無関心。
「どうやら転校生らしいじゃないですか。田舎が肌に合わなかったのでは?」
「おっと」
何気ない台詞のつもりだったが、わかりやすく怪しい反応を見せる嶺南さん。この人は一体俺に何を望んでいるのだ。
「そのことは本人から聞いてね」
「……別に聞きたくないですけど」
「そっか。でも気が向いたらでもいいからさ……仲良くしてやってよ。私はあんまり時間を一緒に過ごせないだろうから。それに京都君となら話してくれるかもしれないし」
心配、というやつか。姉として妹の不和を気にしているみたいだ。
それにしても、俺にならか。
どういう意味なんだろう。変に誤解されているような気がするのだが。
「その度に無視されましたよ」とわざとらしく肩を落としてみせた。俺に心を開いてくれる気はしない。
でも、そんな彼女でも姉とはあんなにも感情的になるのだ。
ただ冷淡な人とは言い難い。
それにここも彼女の家とはいえ、1人で暮らしているということでもなくお婆さんもいるはずだ。コミュニケーションが一切ダメということじゃない。
だからって人見知りって訳でもないだろうけど。
「放っておけない感じはありますからね。同級生として、少しくらい気を回してみますよ」
「ありがとうね、京都君」
「い、いえ……」
新婚ホヤホヤの人妻の笑顔に射たれてしまった。
己は屑か。ゴミ箱があったら入りたかった。
◎
水瀬邸を出てすぐ向かったのは自宅ではない。自宅を通ってさらに20分ほど離れたところにある駄菓子屋だ。
鏡子さんは週に幾らか店番を担当しているらしい。暇潰し、冷やかしを兼ねて赴いているところだった。
「水瀬遥ねぇ……」
彼女のことを思い返す。思い返すほど記憶にないが、脳から海馬をひっぺがす勢いでローディングした。
肩より少し長いくらいの黒髪を後ろでまとめたポニーテール。女子としてはやや身長は高く、スレンダーな印象を受ける。あの日射しの中でも病気を患ってるかのように肌の色は白い。
俺よりも早く、4月からここに転校してきたJK。
他人と接しようとしない。その理由は不明、本人に聞けと姉の嶺南さんは言う。
見た目以外の情報がまったくわからない。
しかし、あの時何故俺は水瀬さんを夏祭りに誘ったのだろうか。いつも通り何となくか。
名もなき駄菓子屋のは客1人いなかった。
数分前なら小学生もいたかもしれないが、その時は冷たいお茶を飲んでいた頃だろう。
店の外には冷凍庫があるが、稼働していなかった。
「鏡子さーん、いるかー?」
「遅いよ京都君! すごく暇だったんだからね!」
声をかけたらどたばた床を鳴らして奥の座敷から現れた。
勢いが強過ぎて、そのまま抱擁されるかと思ったが直前で止まる。
一寸先にある美少女に、思わず息を飲む。
肩に手を乗せて後方に押し出す。
「落ち着け、俺は逃げない」
「本当に逃げない!?」
ここには逃げるような何かがあるというのか。
「逃げないよ。隕石が落ちても、居直り強盗がいても、熊に襲われても逃げないよ」
そのレベルだったら諦められるってだけなんだけどね。
俺のよくわらない発言を聞いて鏡子さんは満足げに頷いた。とても嬉しそうだ。
一体何を考えているのか。
「……駄菓子屋に来たんだし何か買うか」
すると鏡子さんは店のとある商品を持ってきて俺に渡してきた。
以前食べた長いグミ等では決してない。
「お勧めはね、この縄跳びだよ」
「……駄菓子屋に何故縄跳びがあるんだ……」
こういうところは田舎っぽい。縄跳びは丁寧に返却した。
商品を矯めつ眺めつしていると『氷』の幕がカウンターに垂れている。
「かき氷食べたい」
「今作るね」
「うん」
出てきたのは一昔前のものではあるが、電動かき氷機だ。奥から氷の塊を持ってきて機械に投入する。
グラスを設置して、ボタンを押すと薄い氷が溜まっていく。
「何味がいい? いちご? レモン? ブルーハワイ? メロン? 砂糖?」
「砂糖って……鏡子さん知ってる? かき氷の味って色と匂いが違うだけで全部同じなんだぜ?」
「そうなの!?」
こういう反応すると思って言ったが、実際やられるとすごく虚しかった。
世の中には何にも知らない人がいるんだなぁ、って思う。
イチゴ味にした。練乳はなかった。
「はい、あーん」
「…………」
「いらないの? あーん」
「自分で食うっす」
「えぇ~」
変な癖がつくと良くないからちゃんと注意した。つーか、あーん癖ってなんだよ。
お金を払ってかき氷を受け取る。スプーンを口に運んだ。
「美味いな。というか甘いな」
「私も食べよっと」
そんなことを言うから俺のを食うと思ったが、ちゃんとかき氷機を回して自分の分を作り始める。
それくらいの常識はあるか。俺の中の鏡子さんの立ち位置は完全に子供だった。
しばらく、無言で食べ続ける。あっという間にグラスの中は空になった。
「ご馳走さまでした」
「ご馳走さまでしたっ」
口の中が甘くなったので水が飲みたくなった。失礼とも思ったが、倫理観がぶっ壊れてしまったのか俺は普通にお願いする。
「水飲みたいんだけどいいかな?」
「じゃあ、上がってよ」
「上がる? 奥の座敷にってこと?」
「そう!」
ということで六畳間に案内された。テーブルと数枚の座布団しかない簡素な部屋だ。電灯すらないが、窓からは日が射し込んでいるので暗くない。
灯りがないって致命的欠陥だと思うが……。
「はい、水」
「ありがとう」
イッキ飲みしてコップを空にしたところで、気づいた。
テーブルの上にはトランプが置いてある。同じタイミングで鏡子さんが持ってきたのだろう。
やりたいのか。
「……トランプするの?」
「嫌かな?」
「嫌じゃないけど」
「そっか、じゃあやろっ」
一応、気は遣ってくれたみたいだ。いつもみたいに言っても良かったのだけれど。それともここではトランプするのに気を遣わなければいけないのか?
トランプを手に取ってみた。いわゆるところのトリックデッキではない。一般よプラスチック製のトランプだ。
「何のゲームする? やっぱ最初はポーカーとか?」
こうしてトランプを握るのも、シャッフルするのも懐かしい。まさに小学生以来だ。
正式名称は知らないショットガン風のシャッフル。左右に等量のカードを持って1枚1枚交差させて混ぜる。
カッコ良さそうだからってよくやった覚えがある。
実際そうで、鏡子さんは目をキラキラさせていた。
「どうやってやったの!?」
「このように」
何回か見せたがまったく理解してくれなかった。
鏡子さんは右脳タイプのフィーリング人間なので、説明するよりも実践させた方が良いのかもしれない。
という訳でやらせてみた。
初心者のように手からカード溢れていた。いくらやっても上手くいかなくてどんどん不機嫌になっている。
「――仕方ないな……こうだよ。端っこに親指を宛てるんだ」
「あ、う、うん……」
鏡子さんの後ろに回って抱き締めるかのように、手を重ねた。重ねたというか、誘導のためにくっ付けてるだけだ。
女の子首筋がすぐそこにあって、汗ばんでるのが目視できてしまう。俺の方が変な性癖に目覚めそうだ。
「で、こうすればできるはず」
「えいっ――あ、できた!」
できたのならこうして密着してる必要もない。サッ、と離れる。
これはまずい距離感だと実感する。
下手すれば、というか性欲が抑えられなければ多分押し倒してしまうだろう。まったく好きじゃない人を無理矢理襲ってしまうかもしれない。
妹とか小学生とか思ってても、彼女は女の子で同い年。
それに可愛いし。愛しいし、愛らしい。
もっと早く出会ってれば、なんて言わない。言わないけれどそう思ってしまうくらいには俺の心をときめかせている。
ドキドキなんてしないのに。
好きなんて言えないのに。
恋愛なのか、性欲なのか。それとも保護欲なのか独占欲なのか。
「――こんなこと考えたくないんだがな……」
思春期丸出しみたいで嫌になる。
特に、精神年齢が幼い彼女の前では。
普通に、マジに、死にたくなる。罪悪感が途徹もない。柱に頭を打ち付ける自傷が浮かぶ。
「どうしたの京君?」
「いいや何でもない。折角トランプなんだからシャッフルじゃなくてゲームもしようよ」
「そうだ、忘れてた!」
「じゃあ、とりあえずポーカーからだな」
言い訳するように、そんな提案をした。
少なくとも、鏡子さんがそうやって笑顔ならば間違うことはないだろう。
そんな日は永久にやって来ることはない、と断言できるがそれでも心に留めておく。
ポーカー、7並べ、大富豪、ババ抜き、と俺の知る王道ゲームをやった。全て俺が勝ってしまった。
鏡子さんは始終笑顔だったが、俺の方は白けている。
「楽しいね」
「あ、あぁ、そうだね」
「環奈ってば私が弱いからって一緒にやってくれないんだよ? 確かにあんま勝てないけど酷いよね」
「そうですねー」
やはり体育会系だな。
嘘を吐くのも、表情を隠すこともできないくらいに純粋な彼女にはあまり合っていない風だ。
けれど、負けても楽しいと思えるのならそれで良いじゃないか。
そりゃあ、俺はつまらないけどたまにだったら――気まぐれにやってもいい。
気まぐれだ――気まぐれに夏祭りに誘ったりもする。
いつも通りじゃないか。
「鏡子さんは弱過ぎるから俺もあんまりやりたくない」
「ええー! やだー!」
「泣いてすがるな抱き着くな! 子供か!」
それから鏡子さんを引き剥がすのには10分をかけたとさ。