④
◎
テストが返却され、四時間で授業が終わる。そんな放課後にも桜橋先輩は来ていた。
俺もいるけど。
「ねえ! 一緒に遊ぼうよ!」
「補習なんだから勉強しなさい」
「やーだー! 友達でしょ!」
「は? 何言っているんですか、違いますけど」
「えー! 何でよおっ!」
彼女は涙目になりながらすがりついてくる。
俺は哄笑した。物語に出てくる裏切り者のキャラクターの気持ちがわかった。
人を騙すなんて確かに笑える話である。
特に自分よりも下の存在だと。
何て思ってしまう……ド屑過ぎるな俺。
でも素でこんなことを思ってしまう。性悪説だな本当に。
「一学年上だけど……勉強教えられる気がしますからお手伝いしましょうか?」
「うっ……私達、友達じゃないの?」
潤んとした瞳で俺のことを見つめたきた。
はっ、チョロいな。
桜橋先輩は頭が単細胞でできてるんじゃないかと思える愚直さである。
「あれは冗談ですよ。上段の冗談ですよ」
「なんで嘘吐くのお!」
ドカドカ、と俺の胸を叩いてくる。
その度に胸骨が軋んだ。人間は強いのだ。喩え、女子でも殴って人を殺せるくらいには。
不穏な喩えではあったが、俺は彼女に殺されるほど柔ではない。痛いけどね。
「冗談言い合えるくらい仲が良いってことだよ」
「そ、そうなんだっ……私と京都仲良し?」
「仲良しですよ、仲良し」
「ふふ、そっかあ~」
しきりと嬉しそうに微笑んだ。
俺のことを名前で呼んでくるけれど、それは彼女が『友達』の距離感を計り測り計り間違えているからであって特に意味はない。
距離感もわからないのだ、桜橋楓美は――これを虚しいと言わず何と言えばいいのか。
「じゃあ、勉強しましょう。この時間帯なら空き教室もあるだろうし」
「えー! やだよ。疲れたから寝る」
「勉強しなければ友達止める」
「何でそんなこと言うの~!」
俺は完全主義だから、この人のようなちゃらんぽらんが大嫌いなのだ。ここで放っておいたら後で凄い罪悪感を背負うことになるだろうし。
来年同じクラスになるのだけは避けたい。べったりくっ付いてきそう――っての自意識過剰かもしれないが仲良しと周りに思われるのは釈然としない。
茹だるような蒸し暑さの教室に二人、机越しに向かい合っていた。そこには桜橋先輩のテストな答案が広げられている。
どこも惨憺たる数字が記されていた。
「これ……進級できないと思いますけど……」
「酷いこと言わないでよ。勉強は苦手なんだもん」
「だもん、じゃないですよ」
ノー勉の俺でももうちょっと取れそうだ。
というかこの人理系なんだ……って話である。文系より明らかに難しいと思うのだが。
だが、彼女の場合はそうでもないのかもしれない。どの教科も満遍なく二〇、三〇点辺りだ。変わってるな。
「八教科とか絶望的ですね。まあ、先輩の場合は勉強してないだけですからやりゃいいだけですけど」
「そんなこと言われても教科書見てると眠くなっちゃうんだもん」
「日頃の行い過ぎる……」
小学生の頃に塾に通わされていた俺の場合、机に座っていると勝手に集中してしまう体質になっている。居眠りすることに慣れたらそういう体質になってしまう。
これは生活習慣が悪い、とまで言える。授業中は起きてろ。
「ちゃんと勉強できたら先輩の言うこと何でも聞きますよ?」
「ほ、本当にっ!?」
チョロいな。
というか机に乗り出すほどか。俺に何をさせていんだ。宇宙人からの要求なんて想像もできない。
若干の不安が過りつつも、まずモチベーションが大事だとも思う。
こっから洗脳していけばいいんだ――って、不意に考えていた。まごうことなき性悪だな俺って。
良くも悪くも純心無垢な彼女を騙すように仕向けたのだ、それなりに誠意を見せなければならない。俺も桜橋先輩に教えられるように教科書を読み込んだ。
◎
学力に関しては意外に普通だった、というのが今回の勉強会の感想。
真面目にやる分には桜橋先輩の理解力は平均のラインに届く。それだけのことなのにいつもとのギャップで凄いことのように思えた。
しかし、一対一だからこそなのかもしれない。それも『友達』という立場だからこそ聞いてくれたのだろう。
学力に関して、根本的解決にはなりそうになかった。
「まあ、夏休みですしこれくらいでいいと思います。今日はちゃんと寝てくださいよ」
「もう、眠い……うぅん」
「ここで寝ないでください。送りますから」
机に散らばっていた教科書等をまとめて鞄にしまって、フラフラの先輩の手を引いた。
もはや目も開けていない。歩きながら寝るなよ。その間、いくらかの生徒とすれ違い視線を投げられた。
明日噂されそうだが、ポジティブに考えよう。明日、噂の伝達スピードを確かめてやればいい。
校門を抜けてから、手を引くのも道路じゃ危ないと考えて彼女を背負った。
両肩にバッグ、背中に女の子。そんでもって快晴の空。
インドア派の俺には辛い。
それに、背中にあるふにふにの感触と夏の湿気が絶妙に俺を扇情する。
結構目立つみたいで生徒だけでなく、住民にも見られた。もっとさりげなく覗いて欲しい、気取ってしまうと落ち着かなくなる。
「客観的に見たらマジで馬鹿らしいよな」
心底惨めに思う――。
偽善な装いが勘に障る。
時間を無駄にしている。
人に見られると背中が痒くなってくる。頭に血が昇ってくる。
数十分の徒歩、当然頭はまったく冷えなかった――。
インターホンを押すと「はい?」と桜橋夫人の声が聞こえてきた。
「三日月京都というものです。楓美さんが寝てしまって、返却しに参りました」
返却以外に何と言えば良かったのか。夫人も特に気にしてなさそうだからいいけれど。
すぐに、家に扉は開いた。
目を丸くする桜橋夫人だが、すぐに「どうぞ」と先を開けてくれる。
「楓美ちゃんの部屋は二階の奥です」
「は、はあ……」
そこまで運ぶんだ、と思わなくもないがそんなことを口にする度胸はなかった。
息を詰まらせながら階段を昇り、奥にある桜橋先輩の部屋に入る。ベッドに寝かしつけてようやく肩の荷が下りた(物理的に)。
「少し休んでいって?」
「は、はい……そうさせてもらいます」
クーラーによって冷やされたリビングにて、冷水を挟んで桜橋夫人と向かい合う。
小一時間前に娘の方ともこうしたな。
おずおず、と水に口を付ける。何を話せば良いのやら。
頭の悪さを暴露してやろうか?
もう知ってるか。
「飲み物の中で一番好きなのは水なんですよ……冷たい水とか」
「へ、へえ……」
完全に気を遣わせてしまっている。
これだから他人の家に入りたくない。何だかんだ桜橋先輩とは手順を踏んで仲良くなっていたんだろうな。
桜橋夫人と俺とでは、共有する時間が短過ぎる――。
「あの、お名前聞いてよろしいですか?」
「私ですか? えっと、桜橋向日葵と言います……」
桜橋夫人――向日葵さんは若干顔を赤くしながら名前を口にした。
向日葵、ってのは何となく恥ずかしいのだろう。
キラキラしている訳ではないが幼い印象を覚える言葉ではあるな。
「春と夏ですか。で、娘の方は春と秋」
向日葵さんの方はおそらく結婚して苗字は変わっているから、季節で揃ったのは偶然。そこから娘に秋を名付けたのは必然。
じゃあ、孫は冬か。
桜橋先輩は一人っ子だったはずだから。
安直と言いますか。
センスが光ると言いますか。
そういえば何で京都何だっけ。
三日月京都――。
両親どちらも関東人だったと思うけど。上方に憧れでもあるのだろうか。
地名は苗字になるとは言うけど、名前でそれも都道府県などという露骨なものにされてしまったのか俺は。
何となくカッコいいとは思うけどね。京都とか。最後の文字がと、で終わっていることが。
コップを傾ければ冷水はなくなった。
「あの、今日はどうしてあんなことに?」
再び静寂が下りると思ったが、向日葵さんが口を開く。
そういえば事情を説明していなかった。放課後になってから数時間経っているし動向が気になっても仕方ないだろう。
必然的に彼女のテストの点数について言及しなければならないがそれはいい。
親に言わないでゴミ箱に捨てるタイプだあやつは。
「勉強を教えてましたら、疲れたようで」
「勉強? あの娘が?」
驚いている。俺も同じ気持ちだった。
「ええ、思いの外真面目にやってまして。あれなら補習もクリアできると思いますよ」
翌日朝起きたら全て忘れる、なんてことがなければだけど。リアルならともかく、桜橋楓美に関してはわからない。
「やっぱ赤点だったのね。どうしてあの高校に入学できたか不思議だわ」
「ははは……」
「えっと、ありがとうね。楓美ちゃんを気遣ってくれて」
「お礼を言われるようなものじゃないですよ」
それは本当に。
今回の勉強会は俺が提案してきたことだからであって、それ以上てもそれ以下でもない。
放っておいたら夜まで教室で惰眠を貪るだろうし。
「猫見てもいいですか?」
「え、ええどうぞ」
クーラーの稼働音のみが響く冷たい空気に身を浸してられるのもこれくらいだった。庭に出ることでようやく肩を下ろすことができた。
数日振りに猫を愛でる。子猫に手を伸ばしたらガブリ、とされた。
気にせず逆の手を伸ばしたら今度は大人の猫二匹に食いつかれた。肉を千切らんばかりに捻ってくる。
「って、痛ッッッッッ!?」
血が出ている。
庭にある水道の蛇口を捻り水道水で血を流した。
冷たくて、透明で――溶けていた思考が固まってくる。
もうすぐ夏休みが始まるんだな――。
すぐそこに迫る『退屈』に思いを馳せながら猫を見つめる。眠りについた子猫を取り上げて撫でてみた。
リラックス効果があるし、孤独感も紛らわすことができる。子育てを終えた壮年が飼いたがる訳だ。
「先輩もかな……」
宇宙人と渾名され、学校で浮いている彼女に友達はいなかった。小学生の頃から動物を拾っていたらしい、ならば孤独感もその頃からあったのだろう。
孤独感に――。
俺は耐えられるようになった。
彼女は紛らわした。
結果に大差はないが、生き方はまったく違う。
教科書を忘れた時とか。
体育着を忘れた時とか。
提出物をなくした時とか。
いけないことした時とか。
誰かに言いたくなる、言って楽になりたくなる。
だが、友達がいないやつはそんなこともできない。拭われない不安を抱き続けるのは苦しいことだ、溜め込んだとしてもより一層の不安がのし掛かる。
それでも、俺はそうしてきた。
失敗しないように生きてきた――だからか、いつの間にか感情が動かなくなっていた。
動揺を殺していたら、感性も殺していたのだ。
まあ、それはいいんだけど。
だが、桜橋楓美の場合は?
教科書を忘れて、体育着を忘れて何だ。堂々と言いそうだ。不安も何も感じてないかもしれない。
ならば羨ましい――と思う。
自分の名誉も捨て置き、社会的地位もかなぐり捨てられたらどんなに良いか。
人に頼らなくて、一人で完結して、それに対して何も感じない。
でも、そうなったら宇宙人か――。
「ううう、京都おおおおお」
「っ……先輩、抱きつかないでください暑いです。暑苦しいです」
唐突に背後に重みが乗る。
友達同士はこんなことしない、と言いそうになった。
同性ならそんなことがあってもおかしくない、と思ってしまったから躊躇ったのだ。
同性異性で隔てるのはどうなのか――。
これはきっと友達に関しての大いなる命題の一つだ。
言葉の上で、友達も恋人も何が違うのか。
もはや境目などあってないようなものだ。
「先輩、俺のこと好きですか?」
「好きだよ!」
「そう、ですか……俺も――」
友愛と恋愛の違って何なのか。
このまま彼女と接していたら、きっと好きになる。
要素は十分ある。
顔可愛いし。
俺にはない何かに――羨望して、嫉妬して、憧れて、最終的に隣にいたくなって。
でも、俺は相応しくない。
それは友達にしろ、恋人にしろだ。彼女みたいに愚直に誠実に向き合えないから。
悪気もなく嘘吐いて笑ってしまうような奴だ。馬鹿にしながら劣等感を抱くのだ、太刀が悪いことこの上ない。
誠実に向き合うのなら『友達』ですら辛過ぎた――。
「――俺も……何て言えばいいんだろう……」
「京都君?」
先輩は不思議そうに俺のことを見てくる。
「先輩は俺にどんな関係になって欲しいですか?」
「かんけー?」
「はい」
「んー、友達じゃないの?」
「――そう……ですね。友達ですよね……」
「ん?」
あれ?
何で俺はちょっと残念に思っているんだ? 動揺を隠しているんだ?
「どうしたの?」
「いや……俺も、好きかも……先輩のこと……」
「うんっ、ありがとっ!」
感謝を全身でもって抱き着くという形で表した。
それが、嬉しいと思ってしまう。にやけずにはいられなかった。
俺、マジで恋しちゃってるのかもしれない。
好きと認識して、答えが出ることが一つあった。
俺は決して桜橋先輩を彼女にしたい訳じゃなかった。むしろ、桜橋先輩の彼氏にして欲しい訳だった。
恋に堕ちるのは桜橋先輩が可愛いから仕方ない。だからって何かをしようとは思わない。
彼女が友達になって欲しいというのならそうなるだけだ。こちらが折れるのは惚れた弱味としておこう。
「夏休みも来ていいですか?」
「いいよ! たくさん遊ぼうね! えへへへ」
こちらからも背中に手を回して、きゅっとする。
今から俺のジョブに『恋を希う少年』というのを足さなければならなそうだ。




