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◆1◆

 水曜深夜、俺はバイト先近くの駅のホームにいた。

 バイトで思わぬ失敗をして、後片付けやら説教の受講やらを終えたところだった。

 確認すると、時刻は零時前。終電ギリギリだ。

 ホームに人はまばらで、静かである。時折酔っ払いが呻く以外、音はない。

 俺が住んでいるのはそこそこの田舎である。主要な駅から離れれば過疎が進み、田園風景と山の稜線とが視界の大部分を占めるようになる。

 とはいえ、駅周辺はそれなりに賑わっている。

 俺が働いているのは、そんな駅周辺の居酒屋である。

 今日は、来店した客に水を出すのを忘れていたり、注文を忘れて何度も聞き返したり、料理を運ぶのを忘れていて冷めた状態で提供してしまったり、会計時に謝罪するよう言われていたのを忘れて『態度が悪い』と苦情をいただいたり、それらを全て同一の客に対して行っていたりして、なんやかんや店長に説教されていた。

 なんやかんや……はて、なんだっただろうか? 具体的なお叱りやアドバイスの内容は、よく覚えていない。忘れてしまった。

 ポケットから、いつも使っている手帳を取り出して開く。

 そこには『店長から。きちんとメモを取れ、誠意を持て』と記されていた。

 俺はなんだか忘れっぽい性格で、重要なことは手帳に書き記すようにしている。

 しかし、メモに『メモを取れ』を書き留めるようでは、末期である。

 まあ、これが俺の性格なのだから、仕方がない。

 ポジティブに考えれば『忘れっぽいことは個性だ』『嫌なこともすぐ忘れられてよかった』と言い換えることができる。結果オーライだ。

 ……はて、何の話をしていたのだったか。

 …………、そう、バイト先の話である。

 バイト先の居酒屋は、夕方から深夜まで営業しており、俺は夕方メインのシフトに入れさせてもらっている。曜日にもよるが、勤務は短いものだと十九時頃から大体二十三時頃まで。まだ学生なので、終電までには帰してもらっている。

 ありがたいことだ。

 仕事は、客を席に誘導したり、注文を取ったり、料理を運んだりする、いわゆるホールの仕事である。レジを操作することもままある。レジの操作中、客におつりを渡し忘れて慌てて追いかけることも、ままある。

 たしか、その時も店長に注意……された……ような……? いや、どうだったか……。

 ふむ、忘れてしまった。

 まあ、店長に注意されたかどうかなど、忘れてしまっても問題ないだろう。些細なことだ。

 俺はポケットからスマートフォンを取り出し、時間を確認する。

 ついでに、何か着信やメールが来ていないか通知を見る。何もない。

 急いで返信しなければならない案件がないことを確かめ、もう一度、時間を確認する。

 よし、今日は帰って、風呂に入って、すぐに寝よう。もうこんな時間だ。早く寝なければ、明日に響く。明日何か重要なイベントがあったかどうかは覚えていないが、まあ、いい。早く寝るのは健康にいい。

 携帯をポケットにしまい、初夏独特の爽やかで過ごしやすい空気の中、電車を待つ。

 ホームに人はまばらで、静かである。

 ふと、視界の端に動くものを捉える。

 先程までホームのベンチに座っていた女性が、立ち上がり、黄色い線の内側へと移動した。

 俺は、気にせず電車を待ち続けようとして――少し、違和感を覚えた。

 直接視線を合わさず、女性を横目で見ながら、違和感の元を探す。

 女性は、白い簡素なワンピースに、白いパンプスを合わせている。合皮の茶色い鞄はベンチに置いたままだ。半袖のワンピースから覗く左腕――女性は俺の右側にいる――の肘から手首にかけて、白い包帯が巻かれている。

 違う、違和感はここじゃない。鞄をベンチに置き忘れるなど、酔っ払いにはよくあることだ。人間なのだから、怪我をしていることだってある。

 違和感――、女性の足元へ、目を向ける。

 女性が立つホームの地面は、黄色い点字ブロックと、灰色のコンクリートだけが広がっている。

 駅にアナウンスが流れる。快速電車が通過するから注意しろとのことだった。

 自分の足元を見る。そこには、電車の乗り降り口であることを示すペイントが施されていた。

 右側奥から、快速電車がホームへと走りこんできた。

「――――っ!」

 咄嗟に、女性へと駆け出し、その腕を掴んだ。

「きゃあっ!」

 女性が悲鳴を上げ、俺から逃れようとする。

 そして、自由な右手を、線路側へ伸ばす。

「離して! 早くしないと……」

「危ないぞ!」

 俺は、慌てて女性をホーム側へ強く引いた。

 女性はバランスを崩し、どさりと、乗り降り口のペイントがない灰色の地面へ座り込むようにして倒れた。

 同時に、通過する快速電車が、轟々と音を立ててホームを駆け抜けていった。風が吹いて、女性の長い髪を散らした。

「ああ……」

 女性は、恨めしそうに、遠くなっていく快速電車を見つめる。

 そして、次に、俺へと喚く。

「どうして止めたの! どうして……! 邪魔しないでよ!」

 そして、這うようにして線路へ侵入しようとする。

 俺は慌てて、今度は大声で駅員を呼んだ。

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