哲学書 思想書 思想の限界に挑んだ孤高の魔の山としての超厳選ブックリスト 精神現象学 存在と時間 ツアラツストラかく語りき 工場日記 論理哲学論考
精神現象学
存在と時間
ツアラツストラかく語りき
工場日記
論理哲学論考
人間とは、、考えたがる?存在である。
人間だけが考えようとする。
それゆえ人間のことを
「知的生命体」というのだ。
人間は故に知ることを欲する
知ることを愛する
知りたがるのである。
そんな人間は古代より思考を愛した
哲学もこうして生まれたのである。
故に哲学のことを
フィロソフィア、、つまり訳せば「愛知」知を愛する
というのである。
そんな人間の思想の苦闘と挑戦のある種の到達点であるような
至高の哲学の書がある。
それらの極言を目指した哲学書の到達点を示すような
いわゆる哲学書として思想の限界まで挑戦し、極点にまで到達した、、あるいは
到達しようとした
そんな思想の魔の山に挑んだ厳選哲学書から
私が選んだ究極の知の遺産としてのリストです。
まさにここに人間の思想の極致がある
知性のたどり着いたこれが極限なのだ。
そういう思想書
哲学書の厳選リストです
さあそれでは心してごろうじあれ。
不肖、浅知恵をも顧みず、わたくしのミニ解説付きでお届けします。
なお、
「ミニ解説」についてはあくまでも私の「私的見解」であり
それがほんとうに正当な見解かどうかは保証できません。
以下のブックリストの選定も全く私の「独断と偏見」?で選んでいることをあらかじめお断りしておきます。
〇存在と時間 ハイデガー
人間の根本的な問いが「時間」と「存在」であろう。
時間とはなに?
存在(有)とはなに?
一般に、普通「われ」という存在から発して対他的な「時間」を
私たちは理解してきた、
だがそうだろうか?
われから対自的に時間があたかも置時計のようにチクタクと経過するのだろうか?
時の流れに沿って、常に「われ」は永遠の今に現前する。そういう存在、
なのだろうか?
いや、そうではなくて、
むしろ、
時間軸がその永遠の軸から発して存在を逆に規定しているのではないだろうか?
時間の軸の上に存在も依拠して初めて存在たりうるのではないだろうか?
存在しているとは結局何なのか?という根本的な問いに答えようとした試み
それがこの本のテーマである(と私は思う)
そもそも存在認識はわれの意識下に起こるものであり、意識を離れて存在は在りません。
この辺はフッサールの現象学とリンクしてくるわけですが
生まれながらの盲人がもしも50歳にして初めて目が見えるようになったら?
その人は映し出される映像に「意味付け」を与えられないだろう、という記事をどっかで読んだことがあります。
つまりそもそも映像は無意味であるということです。
その映像に意味を与えるのは我の意識です。
意味づけるわれがなければ存在もないということです。
全く見たこともないような映像があなたの目に映ったとしてもあなたはそれを理解できず
解析できない。
存在論を提示するのはあなたが人間だからであり
人間はそういう意味で特別な存在です。
「ハイデッガーは人間存在を「現存在」(ダーザイン)と呼びます。
そういう存在である人間はまた「世界内存在」でもあります。
世界とかかわり世界に働きかける存在だからです。
存在者でそういう存在は人間だけです。
事物存在は事物として存在するだけです。
世界に働きかけたりしません・
ダーザインである人間は耐えず事物存在と関わり世界へ働きかけます。
これをハイデッガーは「ゾルゲ」という言葉で表します。
かかわることによって人間は事物存在から「意味」を抽出するのです。
かかわることで人間は新しい未来を拓く可能性を秘めています。
つまり時間軸に存在しうるという可能性です。
この生き方こそが「実存」としての人間の生き方であるのです。・
だが大方の人間は世界との関わりをより低俗化してルーティーンで過ごして終わる。
なぜなら究極の実存としてダーザインとして世界とかかわるのがしんどいからである。
そんなことをしたら実存を脅かす「死」と常に対峙しなければならないからだ。
未来とかかわるということは必然的に「死」を予見するしかないからでもあるからだ。
ダーザインはまた、ザイン トウーム トーデ(死への存在)でもあるからだ、
ハイデッガーは死を恐れるのではなく死を現存在の完成形として
知恵を持って生きることこそが実存としての人間の理想的な生き方だという。
これをすごく平明化して言い換えると、、
死を意識して世界とかかわり続けろ
それが実存的な正しい生き方だ
ということになるのだと思います。
以上が存在と時間という永遠のテーマを追求したハイデガーによる究極の
思想の苦闘の跡である。ただこの思想的冒険は
完成した書物としては存在してはいません。
人生は終わりをつけることはできません。
現存在は今しか生きられれないからです
永遠の今を生きる限り実は
死は存在しないのかもしれません。
それかどうかわからないがこの書は未完成に終わった。
岩波文庫に邦訳あり
〇精神現象学 ヘーゲル
死と絶望と挫折から始まった人間の生という過程を
弁証法的にアウフヘーベンした先にある絶対精神としての神の
高みにまでいざなう巡礼者としての人間の意識の変容と
浄化を説いた人間どものための究極の遍歴・巡礼の書物
それが精神現象学なのだ。
https://ncode.syosetu.com/n1316ej/
河出書房 世界の大思想に邦訳あり
〇ツアラツストラかく語りき ニーチェ
はたして?この書は狂人のたわごとなのか?それとも新時代を人類に告げる
新しい指針の書なのだろうか?
そういう根本疑問もあるのだが、
「神は死んだ。超人よ、出でよ」
と宣布するこの、布教者にして洗礼者の
ツアラツストラは。一体、凡人に下された
破壊者としての悪魔だったのかもしれないのだ。
この書の冒頭にはこう書かれている
「万人のための、、そして誰のためでもない書物」と、
正にこういうエキセントリックな?書物は
狂気と正常の間に架け渡された一本の綱渡りの綱のような役目なのであろうから、、、。
http://ncode.syosetu.com/n1410cq/
〇論理哲学論考 ヴィトゲンシュタイン
この書によってすべての哲学的課題はすべて解決した、とヴィトゲンシュタインは豪語した。
だから彼はそれ以後哲学をやめて?スイスの小学校の教員になり、そこもやがてやめて今度は僧院付きの庭師になった。
そんな奇矯な人物が著わしたこの哲学書は
確かに一切の問題にカタをつけようとした究極の思考実験だったのだ
「語りえぬことについては沈黙するしかない」
「世界とは論理的な絵画である」
「世界と生は同一である」
こんな紋切り型の彼の命題集を再読するのも冬の夜には良いかもしれない。
ウイトゲンシュテイン 英語読み(彼は英国に帰化しました)
ヴィットッゲンシュタイン ドイツ語読み
https://ncode.syosetu.com/n4070bz/
工場日記 シモーヌ・ヴェイユ
女性が哲学すると、こうもマリア的な発想になるものなのか?
意味のない苦痛の単純労働現場にあえて身を置き、その無意味な苦の果てに神の恩寵を見るとは、そこにしか神の恩寵がないのだとしたら?
苦痛のかなたに神の恩寵を見る。
それは究極の贖罪行なのだとでもいうのだろうか?
ヴェイユの求道は続く。
http://ncode.syosetu.com/n6142cm/
後記
これらのエキセントリックな書物たちは
正にニーチェの明言するように
「万人にための、、そして、、だれのためでもない書物」
なのであろう。
本当は万人が読むべきなのだが
いかんせん
衆愚にはわかり得ようもないような内容だから
結局は
誰のためでもない書物、、という現実がある
という結論なんでしょうね?
☆余計な?どうでもいい?自己紹介?、、
、
不肖、わたくし。某大学の哲学科を優秀な??成績で卒業しております。というわけで私の哲学見解はある程度は正鵠を得ていると自負していますので
安心して?お読みくだされば幸いです。
つまり私がここで書いていることは全くの「ざれ言」や「デタラメ」などではないということです。
わたしなりの永年の研究成果としてある意味自信をもって書いていますのでその点はご安心に上でお読みくださいませ、