飛べない魚と泳げない鳥
――青い。どこまでも青い。
その青さの上に、綿のような純白の雲が泳ぐように浮かんでいる。もし僕に人間のような手があるのなら思わず伸ばしていただろう。
何と無しに上に眼を向けて泳いでいるだけだったのだが、その光景にまるで虜にされた様にヒレが動かなくなってしまう。自分でも困った物だと思う。
しかし、僕はそうしている時が堪らなく好きだった。
遠くに行ってしまう群れの仲間達に対抗するように、流れる水に逆らうように、じっと頭上に広がっている無限の青を一心に見つめる。
それは最早、日課と課していた。
眼が覚めれば毎日(恐らくこれから一生そうだろうが)冷たい波を掻き分けるように泳ぎ、僅かな食事を取り、そしてまた眠る。そういう単調で、つまらない日々の中で見つけたたった一つの娯楽だった。
「また空なんざ見てやがるのか」
そんな事を考えていると、随分苦々しげだが聞き慣れた声が、羽音と共に上から降って来た。
その白い羽毛に覆われた、あまり大きくない体が太陽に光を遮り、海の上に影を作った。
「やぁ、久しぶりだね」
とりあえず、挨拶をしてみた。彼に会うのは、随分の久しぶりな気がした。いや、実際久しぶりなんだろう。あまり細かいことは覚えていないけど。
すると彼の方は、僕の声を聞いて顔まで苦々しく(そういう風に見えたことにしておこう)なってしまった。どうやら僕の気の抜けた挨拶が気に入らなかったようだ。
「もし他の連中に見つかってたら、お前食われてんぞ」
僕が空を見上げていたことを言っているのだろうか。まぁ、確かに無防備だったと思う。
「でもさ、君は見慣れてるかも知れないけど、僕にとって空ってのは凄い憧れなんだよ」
彼は答えずに、ばさばさと翼を羽ばたかせて降りてきた。
空という物が、僕らが思っているよりもずっと美しくそして遠いところにあるのだと気付いたのは最近の事だ。
というのも、昔から群れの中では何処か変わり者のレッテルを貼られていた僕はやはり他とは思考回路が違うのか、周りとは違う物に興味を持ってしまった。
僕の周りには、何事にも必死な連中ばかりだった。冷たい水の中で、必死に泳ぐ。生きるために。必死に前を向いて泳いでいるから、上を向く暇なんて無いんだろう。
それでも僕は上を向いた。
そこが、僕が変わり者と呼ばれる所以なのかもしれないと、最近になって思う。昔から必死さには欠けていた気がするし。
――こんなに美しいものがあったのか。
僕の心(そういうものがあるならば)に最初にこみ上げたのは、純粋な驚きだった。続いて形容しがたいもやもやとした感情が湧き上がってきたのが分かった。
まさしく青という色が一面に広がり、雲がゆっくりと移動しながら浮かぶ。そういう光景を眼にしながら、僕の心は震えていた。
その時が、空が美しい物と気付いた最初だった。
「思えば、君に初めて会ったのも、こんな空の日だったね」
「そうだったかな」
一つになってみたいと思った。
この泳ぎ飽きた青い海ではなく、無限に広がる青い空を泳いで見たいと思った。いや、思っていると言っていい。
馬鹿な考えだと一蹴されるかもしれないが、その時の僕は心底真剣だった。
あの美しい青色の中で泳げるならば、どれほど幸運だろう、どれほど爽快だろうと。
そんな時に、彼と出会った。
僕と同じように、彼も変わり者だった。いや、僕以上かな? だって、目の前の獲物に襲い掛からずに、何見てんだって話しかけるんだから。
彼は空からやって来た。いや、降って来たと言う方が正しいだろうか。
――その白く立派な翼を羽ばたかせながら。
そして気付いた。いや、もっと早くに気付いていたんだろう。
あぁ、彼はあの空を泳げるのだと。
そして気付いた。あぁ、僕は泳げないのだと。
不思議と悔しさや絶望は無かった。当たり前だ。元々知っている事実を、もう一度知らされたようなものなのだから。
「飛びたいなんざ願う奴は、お前意外にはいねぇだろうな」
「僕もそう思うよ」
「だが、お前は飛べない」
「うん、僕もそう思うよ」
包み隠さず事実だけを伝える彼の語り口は、嫌いではない。むしろ好きなほうだった。
絶え間なく羽ばたいたら、いつかは飛べるだろうか。以前彼に冗談半分でそう言ったら予想通り、無理だろ、と呆れたような声で返してきた。
青い空、白い雲。
僕にとってはこれ以上無いくらいに、遠い。
それに気付いたのは、つい最近だった。
「じゃあ、君も泳げないよ」
「わかってるよ」
彼は僕の言葉に低くぶっきらぼうに答えると、少し高度を下げて海面に近づいた。
足が海面に着くすれすれで止まり、顔を下げ、まるで海を覗き込むような姿勢になった。
そして、彼が僕と同じような心を持っていると気付いたのもつい最近のことだ。
口数が少ない故に、彼の口から直接聞いたことは無いが、僕は確信を持っている。どうやら彼は隠し事ができない性質らしい。仕草や言動の裏に、心を隠しきれていなかった。
彼は、僕が空を美しいと思っているように、海を美しいと思っているようだった。
これは僕の推測が大部分を占めるのだけれど、時折(といっても、回数は僅かだ)ぼーっと空を見ている僕に苦々しげな声をぶつけて会いに来る時も、実は海を見に来ているらしい。
それに気付いてしまったときは、申し訳ないが噴出しそうになってしまった。
なんだ、僕と一緒じゃないか、と。
だが、実際に笑い飛ばす気にはならなかった。それどころか妙な親近感も同時に湧いてきたのを覚えている。僕以外にそんな感情を抱く動物なんていないと思っていたから。
初めて、仲間ができた気分だった。
「海が好きかい?」
なんとなく、直球で聞いてみた。
けれども僕がこう聞いても、いつも彼は正直には答えない。いつもはぐらかされるか、バカかと両断される。
僕が見たところ、どうやら偉そうな口を叩いておきながら僕と同じだ、というのが自分でも気に入っていないらしい。確かにプライドが高そうな面構えをしてるよ。
僕はそんなことはちっとも気にしないのに。むしろ、同じような感覚を共有できて嬉しいと感じる。
「まぁな」
彼へ言葉を投げっぱなしで自己完結していた僕は、彼の突然の不意打ちに驚かされてしまった。思わず空から彼に目線を動かしてしまう。
いつもは無言か、馬鹿いってんじゃねぇ、とか彼らしい憎まれ口が帰ってくるのに。
彼も僕の不思議そうな視線に気付いたのか、何だ、と言いたげな顔で見返してくる。
「お前が思ってるほど、空ってのは面白くないんだぜ?」
彼が何処か、空にぷかぷかと浮かぶ雲の先でも見るかのように遠くを見つめながら呟いた。
こんな表情を見るのは、初めてだった。
「目印は無い、下に降りなきゃ止まり木もない、おまけに飛んでも楽しくないと来たもんだ」
「最後は飛び慣れてる者の言い分だろ?」
「だが事実だ。長い時間飛んでんのがどんだけ疲れると思ってんだ」
その分水に浮いてるお前らはいいよな、と彼は言外に語っているのが分かった。
また、同時に俺は泳げる体じゃないからなと自身への不満を漏らしているようにも聞こえた。
「たまによ、水とかに全身を預けてみたくなるんだよ」
――全てを、忘れて。
遠くを見つめる物言わぬ眼差しが、そう語っているように思えた。
「そう、なんだ」
何処か夢見心地な彼の声に、僕は内心驚きながら返答した。彼がここまで自身の本心を吐き出すことなんて、今までには無かったことだから。
僕は決して冗舌なほうではないと自覚しているけれど、彼との会話の中でメインを勤めるのは大抵が僕だった。
殆どの場合聞き手に回り、僕の提供する他愛も無い話題に対して憎まれ口を叩く。それが彼のスタンスだったのに。なにやら今日は相当機嫌がいいらしい。
翼を持たず、決して飛べない。しかし、飛んで見たいと願う魚。
羽毛に覆われ、泳ぐことは出来ない。しかし、水に全てを委ねてみたいと思う鳥。
正反対に生まれ落ち、正反対になりたいと願う。実に奇妙な組み合わせだ、と思う。偶然にしてはあまりに奇妙すぎる。
「ねぇ」
「あぁ?」
「僕らは出会うべくして出会ったのかもね」
「……何?」
彼は分かったような分からないような、微妙な顔つきで僕を見ている。
そう。もしかしたら、この出会いは必然なのかもしれない。
決して手に入れることの出来ない物を求め続ける二人。
相手の持つ物を羨み、持っていない自分に失望する。
彼と僕以外、誰が当てはまるだろうか。
すると白い翼が、一際大きく羽ばたいた気配を感じた。海に映る彼の影が、さっきよりも小さくなっている。
「行くの?」
「長居しすぎたな」
「そっか」
はじめて見る訳でもないのに、太陽の光を浴びながら羽ばたく彼の翼は、いつもと違い酷く神秘的に見えた。
もしかしたら翼への憧れがそう見せたのかもしれない。
いや、きっと、そうに違いなかった。
「またね」
軽すぎる別れの言葉を掛け、背を向けて空へと舞い上がっていく彼の白い姿をぼんやりと見つめる。
そう、それは不毛な願い。
翼のあるものは空に還り、水に生きるものは水に還る。
いくら羽ばたこうとも魚は飛べず、魚のように泳ごうとしても鳥は飛べない。
それでも、僕らはこの願いを胸に抱きながら生きていき、死んでいくんだろう。
彼は空、僕は海で。
「さてと」
ぼーっと虚空を見つめていた状態からはっと我に返り、周りを見回す。
当然のことながら、群れの連中の姿は冷たい青色の中に行ってしまった様で、すでに僕の視界から消えている。
求める青から目を離し、見慣れた青に身を沈める。鱗が冷たい感触に濡れていき、海面に出ていた為に少し乾いた体を潤していく。
結局、何も変わらない。僕らは今までどおり。
彼は空に帰り、僕は水に帰る。
決して満たされない、しかし満たされるすべも無く僕らは、進まない日々の上を進んでいく。
「さて、追いかけようかな」
水がいつもより、冷たい気がした。