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嘘は内緒の始まり  作者: 凪野海里
8月
65/126

6 加藤雪

 その男はとても満足感でいっぱいだった。


 現役中学生アイドル・キョーコを狙うつもりであいつらに近づいたはいいが、本当に言った通りになるとは思わなかった。


 あいつだ。あいつの言った通りだ。


 さらった人間はどこからどう見ても女の子の格好をしていたが、依頼されたときに得た写真の通りの顔だった。これが本当に男なのだろうか。まあ最近では、女装が趣味の人間なんてごろごろいるから問題はないか。


 そいつはいまだにおとなしくしていた。もしも暴れようものならば殴ったり、蹴ったりなどして気絶でもさせようかと思っていたが、その心配はなさそうだった。おとなしすぎる。

 そいつの女子のように軽すぎる体を肩にかついでも、びくとも抵抗の意思を見せなかった。もしかして死んでいるのかもしれないと思って見てみると、ちゃんと目に生気は宿っている。ならば何故?


 いや、いい。男は首を横に振ってその考えを追い出す。いずれにしても自分には関係のないことだ。この任務が終われば、あいつにあのキョーコと会えるように手配をすると約束されたのだから。


「おい! いるんだろ!?」


 元は工場だったという跡地の建物内で、男は声を張り上げた。それはどこまでも反響する。割られた窓から直接入る日光が、じりじりと肌を焼いてくるせいで暑さがハンパではない。

 こんなところにいつまでもいたら、くたばってしまう。


「どこだあっ!」


 誘拐してきた子どもをそこらへんに放っておき、男は歩き出す。子どもが自分から逃げたりしないよう目を離さないように心掛けているが、そいつは動く素振りすら見せなかった。


「おい、どこだよっ!」


 いくら声を張り上げても、しかし返ってくる言葉はない。


「チッ」


 男は戻った。子どもはボーッとしながらある一点だけを見つめていた。男もつられてそちらを見る。何もなかった。

 こういうときに、怯えるとか。抵抗するとか。そういう行為をしてこないのは、いやに不気味だった。何だこいつは。たしかキョーコと同い年で、中学3年生。歳の割に落ち着きすぎている。


 気持ちが悪い。早く離れたい。


「おい」


 声をかけると、そいつはわずかに顔をあげた。感情のこもっていない瞳だった。


「お前、加藤雪か?」


 わずかに反応があった。しかしそれも一瞬のことで、すぐに彼は素面に戻った。


「残念だな、お前。何か仲間たちと計画していたようだが、結局つかまっちまうとは。ま、自分に運がなかったと思って諦めるんだな」


 男はヘッと笑ってそれから雪から離れた。

 ボーッとした頭で、彼は――雪は――あるいは僕? 俺?――は考える。


 運? 運ってなんだ?


 うだるような暑さの中で思考をめぐらせる。常に何かを実行するのには最終的には運がつきまとう。自分が散々逃げてきた先に、結局運がなくてここにたどり着いたというのか。

 だとしたら僕は誰なのか。いや、あるいは俺は誰なのか。


「ねぇ、おっさんさ」


 雪が初めて声を発すると、背中を向けていた男が驚いた顔をしてこちらを見てきた。声を発するのがあまりにも意外だったのだろう。だが残念ながら、さっきから見えているし聞こえているのだ。


「俺のこと、知ってるの?」


「はぁ?」


 男はくだらない質問だなと思いながら、ヘッと笑った。


「知るわきゃねぇだろ。俺はな、ある人に頼まれてお前をここまで連れてきたんだ。なるべく無傷でとか余計な注文付きで。仕方なくな。ったく、ざけんじゃねぇぞ! 自分から呼んでおいて待たせやがって!」


 なるほど。この計画は犯人のなかで、あらかじめ決められていたことなのか。おそらく犯人の言動からして、彼は雇われただけ。主犯は他にいる。

 果たしてこの巧妙な手口を思い付き、なおかつワタラセトールさえもしのぐ、誰かは何者なのか。


 大人かな、と考える。


 しかもただの人ではない。


 《《加藤雪のことをよく知っている人》》だ。


 ハッと笑いがこみあげてきた。


 それからハハハ、ハハハと乾いた笑い声をあげ、しばらく楽しそうに雪は笑った。いや、楽しそう? そんなものではない。少なくとも彼は口角をあげて笑ってはいたけれど、目は笑っていなかった。まるでこの現状を茶番劇だとでも言うかのような顔をしていた。


 それを傍で見ていた男は、恐ろしくなった。


「何だよ! 何がおかしいんだよっ!」


 声量の限り叫び、力の限り傍にあったコンテナを殴った。雪の笑い声はそこで止まる。

 男の発した音にびびったからではない。この状況に納得していないからだった。


「おかしいさっ!」


 雪は大きな声で答える。まるでプログラム通りに動くロボットさながらのように、一瞬にして彼は嗤うのをやめた。また白けた顔へと戻った。


「だって、そうでしょ? 俺は自分がわからない。自分の名前がわからない。そんな自分でも曖昧な存在だというのに、その俺を知っている人間が、俺を見つけるために誘拐? 笑わせんなよ! 俺は、俺は」


 今までの気持ちを一気に爆発させるように、それはさながら感情を制御できなくなった子どものように。


 叫ぶ――。


「俺は加藤雪が嫌いなんだよッ!」


 ずっと、隠してきたこと。誰にも言えなかったこと。自分は、彼は、僕は、俺は、ずっとずっとずっとずっと。加藤雪が嫌いだった。


「俺は自分が何者かわからない……。加藤雪なのはわかる。でも、《《加藤雪》》は本当に僕のものなのか、あるいは他の誰かのものなのか。それがわからないんだ……」


 少年の顔は苦痛にゆがむ。かつて感じた痛みがぶりかえしてきて、心を侵食する。今までずっと耐えて耐えて耐え続けた感情が、一気に爆発する気持ちを味わう。

 半年、半年耐えた。けれどもう限界だ。おさえきれない――。


「俺は、苗字が1番嫌いだ。名前だって、嫌いだ。でも、何も呼ばれなかったら、《《僕》》は何でもないただの人形になってしまう。名無しの権兵衛だよ。それもなんだか嫌いだから、加藤雪の仮面を被って、みんなには『雪』って名前を呼んでもらっている。ああ、僕にはある意味ふさわしい名前か」


 雪というのは、ほんの一瞬。

 降って、触れて、溶けていく。

 存在の不確かな自分にはずいぶんと合った名前だ。


「おっさん。僕は誰? そして俺は誰だと思う?」


 吐きそうだった。気持ち悪かった。名前を呼ばれるたびに吐きそうだった。


 けれど、最近は好きになってきていた。彼女が自分の名前を呼んでくれるから。彼女に名前を呼ばれると、不思議と安心してしまう。まるで前世に会ったことのあるような、あるいは生き別れた何かのような。


 男は答えなかった。いや、答えられなかった。ただただ恐ろしかった。この少年は何者だ。加藤雪をさらってこいという依頼を受けて、それを実行した。そして成功した。そのはずなのに。

 そのはずなのに先ほどまで感じていた、成功したという達成感に自信がなくなっていく……。


「で、誰? このくだらない劇に、僕を誘ったのは。名前だけ教えてよ」


 雪は言いながら、初めてわらった。ちゃんとしたわらい方だった。たとえそのわらいが道化ピエロの嗤いだったとしても。


 しばらくの沈黙。男は雪の質問に答えなかった。いや、答えられなかったのだろう。……当たり前だ。


 ――時間の無駄だな、せっかく。


「じゃ、僕は帰るよ」


 ――せっかく。


「依頼人に伝えておいてよ、おっさん」


 ――せっかく。


「今度はうまくやりなよ、って」


 ――せっかく、《《自分の正体》》を知ることができるチャンスだったのに。


「てめぇっ!」


 瞬間、男が走り出した。気持ちの悪い顔が近づいてくる。脂まみれの汚い顔が近づいてくる。雪はしばらくその顔を見つめ、静かに足を振り上げようとして――。


「うおりゃぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 天井から落ちてくるような勢いで、1人の少女が男の後頭部へと直撃したのを見た。

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