2 ラムネ
ごった返す人の波に逆らうようにして、僕は海さんを探し続けた。道だけじゃない。屋台と屋台のあいだなんかも、くまなく探した。
携帯を何度か鳴らしてみたけれど、この喧騒だ。応答はなかった。
まさかこんなところで本当に迷子になるなんて思わなかった。
まもなく入り口の鳥居も近い。
もしこのまま見つからなかったら、という不安が胸に押し寄せてきたそのとき。
「あ、いた」
ラムネ屋の屋台とわたあめ屋の屋台の間に、彼女がいた。
よかった、見つかった……。
僕は安心して目の前を歩く人に何度も「すみません」と言いながら、やっと彼女の前にたどり着くことができた。
「海さん」
「あ、雪……」
膝を抱えて座っていた彼女は顔をあげ、ここで初めて僕を視認する。ふと、その顔がわずかに赤いことに気がついた。
あまりの暑さにまいってしまったんだろうか。
そう思っていると、ラムネ屋の屋台にいるおじさんが横から声をかけてきた。
「お。この嬢ちゃんの知り合いかい? よかったな。1人でずっとここにいたんだぞ」
「そうだったんですか。すみません」
それはさぞ迷惑をかけたことだ。
謝ると、ラムネ屋のおじさんは「いやいや、大丈夫だ」と笑って、仕事に戻った。
海さんに「大丈夫?」と声をかけると、黙ってうなずてきた。
なんだかいつもよりおとなしい。迷子になって不安だったんだろうか。
「立てる?」
手を伸ばすと、彼女は「平気……」と鈴の音のような小さな声でそう言って、ふらふらと立ち上がった。
そして、ラムネ屋のおじさんに顔を向ける。
「あの、おじさん……。代金は」
別の客を相手にしていた彼は、ちらっと横目で海さんを見て気さくに笑った。
「いいって、いいって。特別に無料であげるよ」
「ありがとうございます」
何かもらったんだろうか?
聞いてみようかと思ったけれど、海さんは「行くよ」と言って僕の服の裾をつかんでそのまま引っ張ってきた。
仕方なくその場を離れる。
「じゃ、楽しんできな」
海さんはラムネ屋のおじさんに黙ってうなずいた。僕は慌てておじさんに頭をさげて、海さんと共に歩き出す。
「代金って?」
「さっき、ラムネをもらったんだ」
「そうなんだ」
それほど長い間、迷子になっていたということか。今さら早く見つけられなかった自分を悔やんだ。
ふと、海さんが立ち止まった。後ろにいた人たちが危うくぶつかりそうになり、舌打ちをする。慌てて謝って、僕は海さんを道の端につれていった。
「どうしたの?」
「あれ……」
海さんの視線の先には射的屋がある。そこに釘付けになったまま、彼女の瞳は動かない。
「やりたいの?」
「やりたいけど……。でも無理。たぶんあたらないよ」
「何か欲しいのあるの?」
「まろさん……」
ま、まろさん!?
まろさんっていったら、篠田が溺愛してるまろまゆの柴犬のキャラクターだ。たしかにそこの射的屋の最上段には、おすわりの態勢のまろさんがいたけれど。
うーむ……。とれるかなぁ。
「すみません。射的やりたいんですけど」
射的屋の前でタバコを吸っている、男前なお姉さん――どちらかというと、姐さんに近い――に声をかけた。
「ああ、いいよ」
彼女はうなずくと、まだ火が灯っているタバコを足で踏み消した。
僕はお姉さんに300円を渡して、彼女から銃とコルクを3つ受け取った。銃口にコルクをねじこむようにいれて、構えてみる。意外にも銃は重かった。
「別にいいのに……」
海さんがぼそっと言ってくる。でも僕は「いいよ」と言った。どうせあたらないことはわかっている。
標的に銃口を向けると、まろさんは、のほほんとした顔をしながら僕を見つめ返してきた。
引き金に指をかけて、呼吸を止めると共にそれを引いた。
パァン、と乾いた音をたてて発射されたコルク玉は、まろさんの目に命中した。
ぐら、と体が傾け、あっと思う間もなくその場でころっと倒れた。
「あ、あれ?」
倒れた?
意外な結末に呆然とする僕に、お姉さんが尻上がりの口笛を吹く。
「おや、これを1回であてるなんて驚きだね」
お姉さんはいつのまにか2本目のタバコを吸っていた。まろさんを手にして、「ほい」と手渡ししてくる。
「あと2回だよ」
「あ、もういいです」
「もういいのかい?」
「はい。目当ての物は取れたので」
お姉さんは僕の隣にいる海さんを見て、ニヤリと笑った。
「なるほどね~。それもこれも彼女のためかい」
「か、彼女!?」
違う、彼女じゃない!
そう否定しようとしたけれど、それがますます誤解をうみそうに思えて、僕は口を閉ざした。
どうも女子と一緒にいると、付き合っていると思われるらしい。
「はいよ」
お姉さんは僕の手に何かを置いた。見てみるとそれは200円だった。
「え、お金……」
「1回300円だけど、それしかやらないんだろ? それにあんた、1発でそれとっちゃったし。お金は返すよ」
「あ、ありがとうございます」
なんか、ヤンキーみたいに見えて普通にいい人だったな。
僕は腕にあるまろさんを、早速海さんに渡した。
「はい」
海さんの瞳がきらきらと宝石のように輝く。
「ありがと……」
まろさんを抱きしめて、その体に頬擦りしている。どうやら相当このぬいぐるみが欲しかったらしい。空いた方の手で僕の手を取ってきた。
「行こ」
「うん」
お姉さんが僕らに手を振ってくれた。きっと、さよならという意味だろう。僕は手を振り返して、海さんと共に再び歩いた。
しばらく進んでいくと、気がついたら神社の境内に着いてしまった。
結局徹くんたちとすれ違わなかったな。もしかしたら別のところにいるのかもしれない。
一応、海さんと合流できた旨のメールを送ってから、僕らは神社の境内に腰かけた。
そこからは夏祭りの様子がよく見える。夜だというのに、提灯の無数の明かりのおかげで、きらきらと眩しく道を照らしている。
そういえばさっきから、海さんの口数が少ないような気がするんだけど、大丈夫だろうか。
「海さん、大丈夫?」
もしかして人の波に酔ったか、あるいはこの暑さだ。熱中症にでもなったのかもしれない。
彼女は僕の質問には答えず、不意に僕の肩に頭をのせてきた。
突然のことに僕は驚いてしまう。
よく見たら顔まで赤い。
普段の彼女とは違う雰囲気に戸惑っていると、海さんがちらっと僕に視線を送ってきた。意外に長いまつげをしている。
「海さん。熱とかないよね? あるいは体調が悪いとかさ。顔が赤いけど……」
「兄、さま……」
にいさま?
暑さでぼけているのか、うつろな瞳をしながら彼女は小さな口から言葉を淡々と発する。よく耳をそばたてておかないと聞き取れないほどに小さかった。
「兄さま、兄さまどうして? どうして……1人なの? ボク、1人は怖いって、あんなに。あんなに言った……のに」
様子が変だ。
けれど言葉をかけて正気に戻す気にもなれなかった。ふと、「兄さま」がお兄さんを示すことなのではないかと気がつく。
思えば家族のことを彼女から聞いたことがない。一度だけ両親への気持ちを吐露していたけれど、それきりだった。
彼女にも大切な家族がいるのだろう。当たり前だ。《《僕と同じなわけがない》》。誰にだって大切に思う人がいて、その人のために生きている。
僕なんかとは全然違う。
海さんの大切な人って何だろう。ちょっと知りたい気がした。
「海さんのお兄さんは、どんな人なの?」
思わずそう質問していた。
「……体が弱くて、いつも布団にいた。でも、優しくて柔らかい人だった。花がね、好きだったんだ。それだけじゃない。読書やお香、お茶。そういうのも好きだった。部屋に籠ることが多い人だったけど、ボクは毎日のように、兄さまのもとへ行ったんだ……」
ふと、僕は目をつぶってその人を思い浮かべていた。まぶたの裏に映った彼は、病弱なまでに白く、儚く、ゆえに花のように美しい。微笑む姿は誰をも魅了させ、篭絡させ。その姿はまるで甘美な蜜で獲物を誘う植物のよう。
……って、あれ?
どうして僕はそこまで鮮明に思い浮かべることができたんだろう。会ったこともないのに……。
不思議に思っていると、不意に海さんがその体に電気を走らせたみたいにがばっと起き上がった。その素早い行動に僕はさらに驚く。
しかし彼女のほうが何かに対して驚いているようだった。
「ウソだろ……」
「何が……?」
どうやら正気に戻ったみたいだ。たった今までのことがウソであるかのように、意識がはっきりとしているらしいのが見ただけでわかった。
「わたし今、もしかして顔赤い?」
勢いよくこちらを向いた彼女に、僕は首を縦に振った。
海さんの表情が怒りに満ちる。
「あんの、オヤジ……」
「え、何? どうしたの」
「ラムネ屋……」
「ラムネ屋がどうかしたの?」
「さっき、雪が来るのを待ってたときに、ラムネ屋のおじさんがラムネをくれたんだ」
「ああ、そう言ってたね」
「わたし、ラムネを飲むのは初めてだったんだ。最初は、おいしいなとか思ってたんだけど。……あれってさ、炭酸なんだよね」
「そうだね」
海さんは僕の肩にもう一度頭を置いた。僕は今度はそれにかまわなかった。彼女の体はすごく熱い。熱気が直に伝わってくる。浴衣を着ているから当然かもしれない。
海さんは僕の肩に頭を預けたまま、こちらを見ないでこう言った。
「わたしさ、わたし……。炭酸を飲むと酔っぱらっちゃうんだよね」
「は?」
炭酸を飲むと酔う?
「もしかして吐きそう?」
「……酔うからって必ず吐くわけじゃないよ。でも、あんまりみんなに知られたくないから、しばらくこのままでいさせて」
酔った人への対処法というものを僕は知らなかったから、海さんの言う通りにした。
彼女は抱き枕を抱いたまま、静かにしている。もしかしたら寝ているのかもしれなかった。
そのとき、シャッター音が聞こえた。
「何してんの?」
「それはこっちのセリフなんだけど……」
あきれた目でそちらを見れば、いつのまにか徹くんたちがそこにいた。篠田は恐らく2杯目であろうかき氷を食していて、その後ろではつまらなそうな顔をしながら永井さんがわたあめを食べている。
「決定的瞬間をカメラにおさめようと思ってね、俺は」
悪びれもせず、徹くんはそう言って僕らに近づいてきた。そのあとを篠田と永井さんが続く。
「海は寝ちゃったの?」
「起きてるよ……」
永井さんの呼びかけに応じるように、海さんが顔をあげた。彼女の腕のなかにいるまろさんを見て、篠田が叫ぶ。
「あー! まろさんっ!」
「射的屋の景品だね」と徹くんがのんびりと言う。
「雪にもらった」
「いいなあ」
篠田がうらやましそうに海さんの腕に抱かれたまろさんを見つめる。
「帰る」
唐突にそう言って、海さんは立ち上がると境内から降りていった。そして、一本道をふらふらと、まるで酔っているかのような足取りで歩いていく。僕はそのあとを慌てて追いかける。みんなも自然とついてきた。
彼女に追いついた僕は、みんなにバレないようにそっと耳打ちをする。
「海さん、まだ酔ってるの?」
「そうみたい……。頭の中がぐちゃぐちゃしてるっていうか。まあ、飲んですぐそうなっちゃうから慣れてるけどね。雪、このことは」
「うん。誰にも言わないよ」
正直にうなずくと、海さんはホッとした表情を浮かべた。
何段も続いていく階段を慎重に降りていって、鳥居をくぐる。ここまで来るともう夏祭りの喧騒はどこへやら。もはやそんなものがあったのかといった具合だ。
夏祭りを満喫し終えた人たちと一緒になって、すっかり静まった住宅街を歩いていく。家々のほとんどには明かりが点いてなかったが、時刻はすでに夜の9時。帰宅には充分な頃合いだろう。
海さんが、不意に前方を指差した。
「あの子」
彼女の視線の先を見ると、そこにはツインテールの女の子がいた。というか、見慣れた背中である。
たしか……。
「赤石さんだ」
「赤石?」
怪訝な顔をする海さんに、「クラスメイトだよ」と教えてあげる。
赤石杏子。彼女は僕らのクラスメイトの1人で、現役中学生アイドルをしている。
「何か様子変じゃない?」
追い付いてきた徹くんがそう言って首をかしげる。たしかに言われてみれば、赤石さんはきょろきょろとあたりを見渡しながら慎重に道を歩いていた。変な感じだ。
声をかけようかと思ったそのとき、海さんが「待った」と声をかけてきた。
「わたしが行く」
そうして海さんは走って赤石さんのもとへ向かい、彼女の肩に手を置いたそのときだった。
「キャ――――――――――ッ!」
夜の闇をつんざくような叫び声に僕らは顔を見合わせて、彼女たちのもとへ走っていく。
そのとき脇にある雑木林から、かすかな気配を感じた。
思わず僕は立ち止まり、「誰だ!」と叫ぶ。
人影はわずかな反応を示す。すぐにガサガサと音をたててその場を離れる音が聞こえた。
徹くんも気づいて人影を追いかけようとするけれど、僕は慌ててその腕をつかむ。
「行っても無駄だ。今はそれより」
僕はもう一度、赤石さんたちの方へ視線を向けた。
海さんたちに囲まれた彼女は体を丸めて、ぶるぶると小刻みに震えている。髪が地面についてるのさえ気がついていないようだった。尋常じゃない。
僕は徹くんと顔を見合わせると、一緒に彼女たちのもとへと向かった。